「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」(東京都庭園美術館)

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 東京都庭園美術館岡上淑子展をみに行ってきました。
 ほんとうは三連休を利用して遠出したかったけれど、この雪のなか北関東まで出かけるのは無謀かと思い直して予定変更。

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「夜間訪問」(1952)

 現在、岡上淑子(1928-)を知っているのは服飾デザインや戦後アート史に関心の高い人ではないでしょうか。あと、マックス・エルンストが好きな人。
 日本におけるシュルレアリスム運動を先導した瀧口修造に見出され、1950~1956年までのわずか7年間という創作期間に写真媒介を活用したフォトコラージュ作品を次々と発表した岡上淑子。結婚を機にフォトコラージュの創作から離れ、高知県に帰郷した岡上は永らく忘れられた存在となっていましたが、2000年代の個展を機に再評価され、国内外の美術館がその作品を収蔵しています。

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「彷徨」(1956年)

 もともと東京で洋裁を学んでいた岡上は当時の最新モードへの関心が高く、進駐軍が残していった「LIFE」などのグラフ雑誌や「VOGUE」のようなファッション雑誌を素材にコラージュ作品を制作していました。
 当時の彼女はシュールレアリスムの知識はまったくないまま創作活動をしていたそうですが、同級生の武満浅香(武満徹夫人)のつながりで瀧口修造を紹介され、瀧口からマックス・エルンストの画集を見せられたのだとか。このへんのエピソード、戦後復興期の空気が伝わってきて、なかなか面白い。


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マックス・エルンスト「花嫁の衣装」

 澁澤龍彦好きな人にはおなじみの(?)マックス・エルンスト

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「招待」(1955年)

 エルンストのコラージュ作品「百頭女」に出会ったことで、岡上の作品は背景が複雑化し、奥行きのある空間に変わっていきます。
 この「招待」なんて、まさにマックス・エルンストポール・デルヴォーの実写版かと見紛うくらいですね。華やかなドレス姿と怪物のシュールな組み合わせがデルヴォーっぽい。
 当時の最新モードは、ディオールのニュールックにみられるような、生地をふんだんに使った優雅でクラシカルなスタイル。印刷物のクオリティ(当時の日本のファッション雑誌は藁半紙でコラージュに使えなかったのだそう)やドレープをたっぷり取ったドレス、どれも昭和20年代後半の日本には夢のような豊かさの象徴だったのでしょう。

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「沈黙の奇蹟」(1952年)

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「はるかな旅」(1953年)

 岡上の作品には、優雅なドレスをまとった首のない女性の姿が多いけれど(または頭部を扇や銀のボウルに挿げ替えたり)、「顔がない人物」(斬られた首)の醸し出す違和感、残酷さが作品の世界の純度を高めていて、かえって妄想をかき立てられます。
 旧朝香宮邸というアール・デコ様式の邸宅建築が、これまたシュールレアリスムの世界観と相性バッチリ。建物自体がシュールレアリスム全盛期の1933年竣工だし。大食堂に1950年代のディオールのドレスが展示されていて、この非日常感、庭園美術館ならではの演出効果といえるでしょう。また(これは原美術館にもいえることだけど)、小部屋に分かれているために展示作品全てを見渡すことができず、次はどんな作品が出てくるのだろう…とワクワクします。

 実は、まだこういう妖しい「少女の空想」の世界に惹かれる自分に気がついたのが、この展示での一番の発見でしょうか。
デルヴォーバルテュスなどのシュールレアリスム絵画やグリューネワルトの受難図の複製画を部屋に飾り、クラナッハ(「クラーナハ」じゃないの)風のヘアメイクで身を飾る「少女」……私が倉橋由美子の小説にハマったのも、そういえば二十歳前後の頃だったなあ(冷汗)。

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「廃墟の旋律」(1951年)

 この作品が発表された1951年を昭和26年に翻訳すると、フォトコラージュという「虚構」が、当時の豊かさと焼跡の記憶が二重写しになっているという「事実」を浮かび上がられせてくれます。背景の写真はたぶん「LIFE」でしょうけど。
 あと10年もすれば、1951年が昭和26年であったということの意味を、父母(祖父母)の伝聞というリアルな「声の記憶」として認識できる鑑賞者はどれだけいるのでしょう。


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「予感」(1953年)

 このコラージュ、80年代の三田工業のCMに似てる…。
 コラージュの素材を進駐軍の置いて行った写真雑誌から得ていれば、作家本人が強く意識していなくても当時の世相が作品に現れることもあるでしょう。岡上は東洋英和で初等教育を受けているから、雑誌を通して戦後のアメリカやヨーロッパの女性のエネルギーや自由さにふれたのかもしれない。
 素材はそれぞれ異なるテクストの切り抜きであっても、それが写真雑誌という「時代」を写し出す媒介である以上、組み合わされた虚構の中にリアルが入り込んでいるわけで、そんな世界の再構築が面白い。

 ただ、正直いって新館の第2展示場「ソワレ」はみているうちにお腹いっぱいというか食傷気味の感も。案外、岡上自身もフォトコラージュは潮時だと思っていたのかもしれない…なんてちょっと意地悪な感想も抱いてしまったのでした。
 そういえば、岡上がフォトコラージュ制作を離れたのも、倉橋由美子が「最後の少女小説」(『聖少女』)を書いたのも同じ28歳(AKBもそのくらいの歳までに「卒業」してるし 笑)。
 活動期間が短くて残念がるファンも多いだろうけど、いつまでも「こじらせ少女」でい続けるのも、厄介なことになりそう(笑)。やはり、しかるべき時機に「卒業」するのが、人間として自然の成り行きかもしれません。