<歩く女たち>の系譜-「説教 小栗判官」(近藤ようこ/ちくま文庫)

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お能を観ているせいか、中世の文学作品をすこしずつ読むようになっています。
中世といっても、平安時代後期の平氏政権の成立(1160年代)から鎌倉時代南北朝時代室町時代、戦国時代まで範囲がかなり広いのだけど、この時代に書かれた文学は本当に面白い。
新古今和歌集」なんかパラパラ読んでいるだけでも、やはり「古今」とは根底に流れる空気が違うというか、先行き不透明な時代に生きる人びとの不安とか孤独が現れていて、現代に生きる私にもどこかしら共感できる歌が結構あります。

貴族社会から武家社会への移行期にあたるこの時代、女性の社会的・文化的地位は次第に低下していき、江戸期にもなると、いわゆる女流文学は明治期まで長く表舞台から姿を消します。

その一方で面白いのは、この移行期の文学・芸能に登場する女性たちが大変行動的なこと。
たとえば、鎌倉時代後深草院二条によって書かれた日記「とはずがたり」。
作者は村上源氏の本流である上流貴族・久我家の女であり、後深草院の愛人でもあった女房ですが、奔放な男性遍歴の末に後宮から追放された後に出家し、30歳ごろから約20年間、「女西行」よろしく、京都から関東甲信越、果ては足摺崎まで放浪するという健脚ぶりです。
謡曲でも拉致された子どもや、自分を捨てた(?)恋人を追って放浪する女性が出てくるし、説教節「俊徳丸」の乙姫も盲いた婚約者・俊徳丸とともに流浪します。
彼女たちは「歩く女たち」と言ってもいいくらい、長大な距離を徒歩で移動します。

前置きが長くなりましたが、
「説教 小栗判官」のヒロイン・照手姫もそんな「歩く女たち」の一人です。

小栗判官は、説教節や歌舞伎、浄瑠璃にも脚色されている中世の伝説上の人物です。
都の上流貴族の家に生まれた常陸小栗は、その破天荒な素行から常陸の国に流され、そこで相模国守護代、横山殿の娘である照手の姫という美しい姫と恋に落ちます。しかし強引に婿入りしたことで横山殿の怒りを買い、酒の席で毒を盛られます。小栗は地獄に落ちるものの、結局蘇生するのですが、目も見えず耳も聞こえなければ口もきけず、歩くことすらままならず、そのあまりに変わり果てた姿ゆえに餓鬼阿弥と呼ばれるように。
一方、照手は横山殿に殺されそうになるものの家来の計らいで脱出しますが、人買いに次から次へと売られて各国を流れ流れて、美濃の国の遊女屋に買い取られます。遊女になることを拒否した照手は下女として辛い日々を過ごす中、餓鬼阿弥となった小栗に再会。夫の変わり果てた姿とは知らない照手は、熊野本宮に向かう餓鬼阿弥の乗った車を、夫の供養のため五日間の暇を得て引きます。
そして熊野権現の功徳で「六尺二分豊かな」もとの美丈夫に戻った小栗は、美濃へ照手を迎えにいき、めでたしめでたし・・・というのが、「小栗と照手の物語」を中心にダイジェストしたオハナシ。他にもいろいろと波乱万丈のエピソードがあってなかなか面白いのですが、詳細は本編を
ご覧くださいまし。

小栗は都の貴族の息子ですが、貴族の娘72人と縁組をしたものの、誰も気に入らず結局全員離縁してしまった・・・という彼が最終的に選んだのが、関東の武家の姫である照手であったというところが、時代を感じさせます。
照手は貴族の教養を身につけた美しい姫として登場しますが、遊女になるくらいなら死んだ方がマシ!と拒んだり、復活して横山殿を攻めようとした小栗に「横山攻めをするなら私を殺してからにして」と立ち向かうあたりは、やはり武士の娘。彼女の行動規範は武家社会そのものです。

そんな照手が、餓鬼阿弥の車を引く――一小栗を想う「自分の」心に素直であろうとしたとき、「女物狂」に身をやつす場面で、なぜ謡曲で旅をする女性が物狂になるのかストンと納得できたのでした。あれは社会規範から解放された姿そのものなんですね。
いいかえれば、彼女たちを取り巻く環境はそれだけ抑圧されていたといえるわけだし、社会・文化の両面で時代の流れが激変していくなかで、物狂や出家に姿を変えた「歩く女たち」が登場するのは、興味ぶかいです。

近藤ようこの描く照手は、小栗が死んだとは思っていなくて、心の底では小栗が必ずもとの姿になって戻ってくる・・・と一途に信じているような雰囲気でしたね。
でもそのために、餓鬼阿弥への共感や車を引くために物狂に身をやつすという、それこそ常軌を逸した彼女の行動にも説得力があったし、そこまで一途に想うことができるのは幸せじゃないかと――せち辛い現代に生きる私には、そう思えたのでした。