代々木果迢会別会(1)

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能「屋島/弓流・奈須与市語」
シテ    浅見 慈一
ツレ    武田 友志
ワキ    森  常好
ワキツレ  舘田 善博  森 常太郎
アイ    野村 萬斎  
笛     一噌 隆之
小鼓    大倉源次郎
大鼓    亀井 広忠       
地頭    山本 順之
後見    清水 寛二

狂言佐渡狐」
シテ   野村 万作
アド    竹山 悠樹
小アド   野村万之介

能「卒都婆小町/一度之出」
 シテ    浅見 真州
 ワキ    宝生  閑
 ワキツレ  殿田 謙吉  
 笛      一噌 仙幸
 小鼓     幸 清次郎
 大鼓     亀井 忠雄       
 地頭     観世銕之丞
 後見     野村 四郎

独吟「熊野」
 浅見 真高

能「恋重荷」
 シテ   小早川 修
 ツレ   鵜澤  久
 ワキ   工藤 和哉(代演)
 アイ   石田 幸雄  
 笛     松田 弘之
 小鼓    曾和 正博
 大鼓    柿原 崇志
 太鼓    観世 元伯       
 地頭    武田 宗和
 後見    武田 尚浩

(※2月21日 観世能楽堂


きょうは何があったのか、初番「屋島」が終わったところでパンフレットが配られたのですが、
「恋重荷」のワキ・村瀬純(福王流)の名前が工藤和哉(下掛宝生流)に代わっていました。
村瀬さん、年末の銕仙会でお元気な姿を拝見したばかりなのに・・・。

屋島
旧暦3月18日の屋島の合戦における、命よりも武人としての名誉を選んだ義経の弓流しと、那須与一の扇の的のエピソードを基にした修羅能。屋島(八島)は今回で三度目の鑑賞。
三役は人気者をそろえたキャスティングで、裃姿の源次郎が橋掛かりをすっすっと滑るように歩いていく姿にクギづけ。月代剃って脇差を差したらそのまま太秦に出勤できそう!(笑)

那須与一語」・・・やまねこ、今ごろやっと、野村萬斎の<声の芸>に開眼しました!

今までに何度も舞台を観て、先月は「三番叟」の華麗な舞に感心はしたけれど、それ以上のものはなかった。でも今日は!
語り手と与一、義経の役を一人で座ったまま演じるのですが、表現媒介としての「声」の可能性にギリギリまで挑んだ「語り物。
源平両軍の前で扇の的を射ることになった若者・与一の緊張と不安が、春風と高波に煽られてゆらゆら揺れる扇の動きとひとつになっているような臨場感。海に乗り入れる馬のギャロップそのままの激しい膝行。肌寒さの中にもやわらかさを含んだ春の潮風、波に揺れる何百という舟のきしみ、源平双方かたずを呑んで見守っている気配・・・そんな屋島の空気を能楽堂に持ち込んだような語りだった。
能楽座の「通円」でも感じたことだけど、やはり現代劇での活動が、表現媒介をギリギリまでそぎ落とした舞台に立ったときに生きてくるのだろうか。
シテは前場では正直なところ一本調子というか、いまひとつ生彩を欠いていたような感があったのだけど、この那須与一語の余韻というか余熱の残る舞台に現れた後場からは、ペースを取り戻し、キレのよい舞を見せた。萬斎が去ったあと、囃子が舞台の空気を上手く流したような印象も受けた。ナイスコンビネーション♪
やはり、舞台というものは演者がひとつとなって作り上げるものなのだという(基本的なことを)再認識させられた。


卒塔婆小町」
たとえば満次郎さまがファーストインプレッションで ぐっ!とハートを掴むタイプのシテなら、浅見真州は観るたびにジワジワと引き込んでいくタイプかもしれない(すくなくとも私にとっては)。
今日の「卒塔婆小町」は、老いて零落した一人の女性の、壮絶なまでの孤独と屈折した自己愛を感じさせる名演だった。

小書「一度之出」は、平成20年9月の「響の会」の袴能(山本順之)でも観ています。通常行われるワキの名乗りなしに、最初からシテが登場して長い謡が始まるというもの。
長く低く、地を這うような昏い大小の響きとともに現れたシテは、渋い金無地の摺箔、摺箔と同系色の縫箔の上に黒い絽の水衣(?)を重ね、黒い塗り笠をかぶり、杖をつきながら登場。橋掛かりでの歩みが、地の果てから気の遠くなるような時間をかけて歩いてきたようである。若かりし頃の美貌が「民間賤の女にも蔑まれる」99歳の姥になり果てて、生きる限り続くであろう流浪の苦しみを、低く抑えた声で謡っているのだけど、閑さんとの「卒塔婆問答」も最初は聴きとりにくいほどの謡だったのが、だんだん得意げにクレッシェンドしていって、ついに論破しちゃう演技力はさすがだ。今日は閑さんも受け手に徹していたようだった。

卒塔婆問答」で、卒塔婆に腰掛けていることをとがめられて「私はつまんない埋もれ木だけど、心の花くらいは残ってるから手向けにはなるでしょ」と茶化したり、舌鋒鋭く僧を論破して「我は力を得たり」というところで、雲の切れ目から一瞬月の光が差し込むように、往時の華やかさを見せたのもつかの間、ふたたび明日をも知れぬ惨めな境遇に引き戻されてしまう・・・。身に着けた袋の中の乾飯やクワイが今日一日の命をつないでいるのだ、という壮絶なまでのやり取りが極まって、「物賜べなうお僧なう」「小町がもとに通ほうなう」と物乞いと深草少将の人格が入れ替わり現れる場面は、ほんとにゾワ~ッとした。深草少将が憑依したのではなく、小町の屈折した自己愛が、過酷な現実から目を背けることが出来なくなったときに、かつて自分に求愛した男たちの情念の象徴としての 深草少将になって現れるのではないか・・・。

物着で烏帽子・狩衣をつけても面・鬘は老いた小町のまま、という老女の男装姿は、井筒や松風での閉じた自己愛にも通じるけれど、小町の執着の対象は少将という特定の男性ではなくてあくまで「過去の自分」である。小町の罪は、自分自身しか愛さなかったことにあるのではないか。
凄みと艶のある舞と地謡は「かやうに物には狂はするぞや」で、シテが手にした扇で地謡座のほうを鋭く指すと同時に、ぴしっと凍りついたように止まり、やや間をおいて「これにつけても後の世を」と続くのだけど、扇で舞台の空気を貫き通すような、この数秒の間がたまらない感じだった。
こういう瞬間に居合わせてしまうから、私はお能に病みつきになるんである。

それにしても、「うつつ」が生きている限り醒めることのない悪夢になってしまう小町の業は、人間が「時」に対して持つ普遍的な恐れなのかもしれません。

そして「恋重荷」・・・といいたいところですが、長くなったのでいったん〆ます。

(続きます)