第二回 満次郎の会

一年前、このブログで「来年のチケットを予約したい!」と書いていた「満次郎の会」でしたが、
このところ何かと慌しく、更新がすっかり遅くなってしまいました…。

能の公演は基本的に「一期一会」、つまり一回きりのものが多いのですが、自演会立ち上げ二回目の今年はなんと昼夜二公演。他にもいろいろなお楽しみ企画があるというので、母を誘って
夜の部に行ってきました。
母は、六月の月並能で「誓願寺」を観ており、次の「満次郎の会」も観に行こうね!と楽しみにしていたのです。「前売り開始日はいつなの?忘れちゃダメよ!」との念の押しよう。
やまねこ母娘二代のハートをがっちりつかんだ満次郎さま、恐るべし!!

今年も観世流からゲスト出演があり、夜の部は観世喜正の一調一管「安宅」(昼の部は片山清司)。観世喜正はやや甲高い声質で、謡というよりオペラを聴いているような趣き。やまねこ、正直ちょっとお腹いっぱい。。。
近藤乾之助さんの舞囃子采女」は、足腰の衰えは隠しようもなく上体も揺らいではいましたが、深い艶をおびた、繊細で上品な謡はさすがでした。

そして、いよいよお目当ての「海人(あま)」。
「海士」はともかく、「海人」と書かれると、つい「うみんちゅ」と読みたくなる私…(^◇^;)

竜王に奪われた宝珠を取り戻すため、大臣・藤原不比等は海女と契りを結び男児をもうける…という奪回作戦を、解説の増田正造氏は「十月十日はかかる気の長い作戦」とコメントしていたけど、子供が生まれたのは単なる「結果」なんじゃないでしょうか?いずれにしても、女の心理と生理を利用したきわめて冷徹な奪回作戦でしょうね~(宝珠奪回できても失敗しても海女は生きて帰れない、いわば捨石なわけだし)。子供が生まれてから彼女に作戦を打ち明けたのかも・・・。
そう考えると、私は「海人」のシテには単なる母性愛だけではない、「女」としての面も感じるのです。その点、NHKで観た浅見真州の前シテは、大胆な装束と繊細な表現が「母」よりは「女」を強く感じさせて印象的でした。
はたして満次郎さまはどんな海女を見せてくれるのか?!(←何様?)すご~~く気になっておりました。

…結論からいうと、満次郎さまの前シテは、そうした「葛藤」や「母性愛」からすこし距離を置いていたような印象でした。小書「海中之舞」は、玉ノ段のほとんどを蔓桶に腰掛けて謡と最小限の型だけで表現するという、「頼政」を思わせるギリギリまで切り詰めたものだったからかもしれない。
この小書が高度な技量と表現力を要求する特殊演出だというのはわかるのだけど、観能歴も短いドシロウトの やまねこには、同じ蔓桶を使った演出でも、圧倒的優勢の敵に対してなすすべもなく茫然としていたであろう頼政痛恨の「受け身」に対して、あらゆる葛藤を乗り越えて「自ら」海底に身を躍らせる海人は、通常の(動きのある)「玉之段」の方がしっくりくる気がしました。

実をいうと、この舞台、後場のほうがダンゼン観ごたえあったんです!それまでは、「海人(士)」は物語としては前場で終わっていているものだと思っていたので(浅見真州もNHKでそう言ってたし)、これはかなり意外でした!!
後シテは前場の情緒的な面とは違う、不思議な雰囲気(としか言いようがない)の増(?)の面に黒頭、龍戴。朱の舞衣に大口をまとって海面をすべるように舞台に入ってきたとき、見所の照明を落としていたこともあって、舞台の上に松明の灯がともったように見えました。
解説で「変成男子」(仏教では、女はいったん男に変わってから成仏するのだそう。。。)の話を聞いていたこともあったけど、ありとあらゆる感情を削ぎ落としたというより解脱したような表情の面と黒頭が中性的で、「龍女」とも違う感じ。ああ彼女は成仏したのだな、成仏って現世の執心だけでなく性すら超越してしまうことなのかな、と妙に納得。それでも房前大臣に向き直った瞬間の型には、彼女が唯一忘れられなかった我が子への情愛に胸をうたれました。この後場だけでも観に行った甲斐があったよ~~(涙)
真っ暗な見所からは、後シテが舞衣の袖をふわりと翻すたびに炎が揺らめくように見えた視覚的効果もすばらしく、やがて不知火が沖へ遠ざかっていくように、シテは橋掛かりを静かに去っていったのでした・・・。