中上健次と天鼓

 昼間、連れに、誘われて能を見たのだった。
 妙なる音を出す鼓を帝に取られ、身を湖に投げ入れられた少年が、改悛した帝に歌舞の供養を受け、亡霊となって現れるのが、その「天鼓」という能の筋だった。帝は、少年を湖水に放り込んで殺し、その鼓を取りあげてみたが、いっこうに鳴らぬ鼓を不思議がり、老いた父親を、呼びだす。父親がとんとたたけば、とんと鳴る。歌舞の宴を持って霊を鎮め、そしてそこに少年が現れる。鼓を打ちたたき、一夜、たわぶれる。たわいもない一夜の宴で慰藉される少年のその歓びようが、哀れだった。(中略)連れは、「おまえもみかけによらず大したもんじゃな」と言った。「どうせおまえみたいな、山出しの猿は、あくびして眠りこけるんじゃないかとないかと、おりゃ、心配でよ」と熊野の田舎言葉むき出しで言った。「おれは途中で眠ろかしらと思たが、いびきでもかいたら悪いし」
「はじめてみた。意外に、言うとることわかった」彼は、言った。
――中上健次「天鼓」――
 
 
 こないだの銕仙会の記事を読み返してみたら、なんだかとっても浮かれていて文章がいつも以上にとっ散らかっていて(とっ散らかっているのはいつものことだけど)、ちょっとハズカシイな~と思ったのでした。
 読み手のことを考えたら、下書きを数日おいて粗熱を取って文章に手を入れた方が、少しはマシなものになるかもしれないけれど、シテが幕の奥に消えた直後に焼きついている舞台の残像とともに、その時その瞬間のほんとうの気持ちから離れてしまうような気がする上に、そもそも書く熱まで下がってしまうので、あえて修正もせずそのままアップしておくことにしました。
 
 最近、中上健次を読んでいます。冒頭の引用は短編集「化粧」(講談社文芸文庫)収録の「天鼓」。じつは今日、たまたま立ち寄った古本屋で手にした本で、ぱらぱら~とめくっていたら天鼓のことが出ていたので、びっくり。
 あるものに心を奪われているとき、隠れていた芋蔓を手繰り寄せるように偶然かつ次々と ゆかりのあるものや事柄に遭遇するという経験が多いような気がします。
それだけアンテナを伸ばしているということなのだろうけど。
 観能ビギナーの語り手と中途半端な能楽愛好家とおぼしき連れの会話は、あ~能楽堂でこんなやりとりしてるヒトたちいるよね~って感じ(笑)。たしかに親子ともども酷い目に合っているのに、ただ一夜の供養の宴であれだけ歓んでいる天鼓が哀れだといわれれば、そういう見方もあるんだな~。
こないだの「天鼓」は、帝による供養そのものよりも、前シテのお父さんの息子への強い思いこそが、親子を再会させ天鼓の手にふたたび鼓を取り戻すことができたのだと自然に受け止めたので、中上健次の少し引いた感想にはっとしたのでした。
 もっとも、同じ曲でも演者によってシテのキャラクターや物語がずいぶん違ってみえるのも事実。さらに観客の数だけ違った舞台があってもおかしくはないので、そういう意味では、舞台の感想は演者と観客の脳内共同制作(?)といってもいいのかもしれないな~とも思ったことでした。
(それにしても、あの中上健次が観た「天鼓」は誰の舞台だったんだろう?)