代々木果迢会「屋島」

小謡  浅見真髙
 
仕舞
 「源氏供養」  浅見真州
 「天鼓」     浅見滋一
 
能「屋島
 シテ  小早川 修
 ツレ  小早川 泰輝
 ワキ  大日向 寛(代演)
 ワキツレ  野口 能弘 ・ ?(代演)
 アイ  遠藤 博義
 笛    栗林 祐輔
 小鼓   曽和 正博
 大鼓   佃 良勝
 後見  清水 寛二  安藤 貴康
 地頭  浅見 真州
 
(※5月23日(金) 代々木能舞台
 
 今年も半屋外の座敷舞台で果迢会の公演を楽しめる季節がやってきました。
 この日は通院のために半休取っていたのですが、思いのほか時間がかかり、初台の浅見邸に着いたのは開場10分前。幸い、行列の最初の方だったので無事お目当ての席をゲットできました
 
 お幕が上がると、滋一さんに手を取られて真髙さんが姿を現します。番組表には小謡の曲名は書いてありませんが、その日の能に関連した曲を謡われているようで、内容を聴く限りでは「橋弁慶」だったようです。
 続く仕舞では、3メートルと離れていない至近距離で浅見真州の「源氏供養」を堪能。青山の銕仙会能楽研修所も舞台と見所の距離が近いのですが、代々木はそれ以上。能を鑑賞する上で必ずしもベストポジションではないのかもしれないけれど、浅見真州の身体を取りまく張りつめた静かな気を間近に感じ、白足袋の美しいハコビを目に焼き付けることができるこの見所はやはり格別です。二週間前には銕仙会で「當麻」の神秘的な後シテにうっとりしてきたばかり。あ~~なんて幸せ・・・。
 
屋島
 代々木の切戸口は天井が吹き抜けになっているので、開演直前の地謡’ズが「よし、行きますか」とか言ってるのが筒抜けという、超ライブ感あふれる舞台です(笑)
 この日のワキは工藤和哉だったのですが、ワキツレ予定の大日向寛による代演。
例によって都からマッハの速度で屋島の塩屋に到着した一行の前に、長身の親子ジャナカッタ老人と若者の漁夫が現れます。ツレの泰輝くんが橋掛かりに佇む姿は小早川さんそっくり。まだ若い分線が細いものの声質も似ていて、連吟も一つの声のように息がぴったり合っています。教えられたことを素直に吸収していこうとするまっすぐな感じの泰輝くん、この一年余りで特に精神面で一段と成長したのが舞台からうかがわれ好感が持てます(なんかおっさんくさい感想だナー。。)
 
 シテは序盤では抑え気味でやや硬さがみられたものの、いにしえの屋島の合戦の様子を語るあたりからモードが切り替わった感じ。錦の直垂、紫の着背長という出で立ちで馬の鞍の上に立ち名乗りを上げる義経の姿が、何もない(?)舞台の真ん中にほんの一瞬、すっと鮮やかに浮かび上がったような感覚。ツレの言葉を受けて景清のしころ引きを語るくだりでは、地謡との掛け合いもメリハリがあって、シテの手の中で兜がちぎれる感触がこちらまで伝わってくるんですね。「屋島」にしろ「頼政」にしろ、場面転換や登場人物の内面がじかに伝わってくるような語りの場面は、小早川さんの舞台の魅力だと思うのだけど、「屋島前場の語りって、非常に五感に訴える場面なのだな~と再発見したのでした。
 
 これまた例によって「もしやあの老人は・・・」と僧に尋ねられてアイがなにやかやと語る場面は、ちと単調で、そろそろ足が痺れてきた やまねこは異界にトリップ。。
 
 やがて夜が更けて現れた後シテは、片袖脱いだ紫の法被に萌黄の厚板、朱の地に金で模様がほどこされた半切、梨子打烏帽子、面は「平太」でしょうか。
 能を観るようになってから、やまねこの辞書に「能面のような表情」という言葉は存在していないのですが、間近で見る「平太」は戦場を駆け巡ってきた義経の歳月を物語るように日に焼けて頬の筋肉が盛り上がった、精悍な男の顔でした。彩色が非常にリアルで、本当に生身の顔のように刻々と表情を変えていく。本当の義経は女と見まがう美男じゃなくて、こんな野山を駆け巡ってきた顔だったかもしれないなあ。
 シテは渋い前場からはがらりと趣も謡も変え、若々しく精悍な義経になって、命をも惜しまず弓を拾おうとした弓流しの場面を謡います。「天鼓」もそうだったけど、前場後場では別人のように変わってしまう演技力(?)がすごい。
 
 弓を取り戻すために討たれたなら、運命と思って諦めよう。末代までの名誉のため、私は弓を取り戻したのだ。惜しむべきは名誉、惜しまぬは命。身を捨ててこそ後代にも名を残すことができるのだ…。(※銕仙会HPから引用)
 
 誇り高く、晴れやかな義経。しかし語り終えた直後に波間から響く鬨の声に、見る間に修羅の姿に変貌していくシテの方に、やまねこは惹かれる。謡の色がみるみる(?)変わっていくというのが、末代にも名を残す名誉からテンションの高いまま一転して修羅に堕ちていく義経の姿みたいで。それこそが修羅能「屋島」の主題じゃないかと思う。
 音読会の時は節付せずに詞章を読んでいくのだけど、この修羅の戦いの場面は詞章がビジュアルなこともあって、実際の舞台で地謡や囃子もつき、シテの身体を通すことで、ことばのひとつひとつが色彩を持って立ち上がるように感じる。
 
 現世での戦いの勝ち負けに関係なく、ひとたび戦で人の命を奪った者はひとしく地獄に堕ちる、というテーマなんだけど、すっきりした充実感。今までこの方の舞台はいろいろと拝見してきたけど、たとえば「求塚」のようなおよそ救いのない曲でさえ、舞台の奥に、静謐で清新な空気を感じて足を運んできたのだと思う。この日は久しぶりによく眠れたのでした。