理性と感情のあいだ(「芦刈」もうひとつのラスト)

専攻こそ近代文学ですが、
国文科に進んだくらいで、古典文学(といっても幅が広いのですが)も好きで、
お能の謡も、集中すれば聴き取れるレベルはどうにかキープしています。
もっとも、教職にでも就かない限り、
専攻が直接役に立ったといえる機会はそのくらいしかないのですが・・・。

とはいえ、「古典」として後世に残るだけあって、
現代でも通じそうな普遍的な内容のものが多いとはいえます。
人間のすることは時代を経ても変わらない、ということでしょうか。

たとえば、「今昔物語集(本朝世俗篇)」。
芥川龍之介の「羅生門」「芋粥」は、この説話をもとに書かれたものですが、
平安時代の庶民階級のたくましさ、欲望が生き生きと描かれていて好きな作品です。

先日、宝生夜能会で観た「芦刈」、
パンフレットに「オリジナルは大和物語集」とありましたが、
「今昔」にも同じ説話があります。
(「身貧しき男の去りたる妻、摂津の守の妻と成れる語」巻第三十)
が、「今昔」はかなりシビアな結末になっています。

能「芦刈」だと、妻は貴人の乳母として出世し、元夫を探しにきます。
「今昔」では、妻は都で受領階級の貴族に仕えて主人に目をかけられ、
国司の奥方として「出世」し、夫の任地について行った先で、
葦刈の下人に身を落とした元夫と再会します。
妻が「あれは別れた夫では?」と、元夫を呼び寄せるまでは「芦刈」と同じ。

「今昔」では御簾ごしの対面なので、元夫の方では気がつかない。
その間に妻は夫の様子を観察し、あまりのみすぼらしさ、
与えられた食事をがつがつと食べる様子に、「いと心疎し」(情けない)と感じる。
そして、衣服を差し入れ、和歌を書いた紙をこっそりしのばせます。

あしからじと思ひてこそは 別れしか などか難波の浦にしも住む
 訳:「悪くはなるまい」(=葦を刈るまい)とは思って別れたのに、
   どうしてまた難波の浦で葦なんか刈っているの

元夫は、これを見て奥方がかつての妻だったと気づき、
「いと悲しく恥ずかし」と思い、返歌をよこします。

君なくてあしかりけりと思ふには いとど難波の浦ぞ住み憂き
 訳:あなたがいなくてはやはり駄目だったと思うにつけても、
   難波の浦はいっそう住みづらい

奥方はこれを見ていよいよ悲しくなりますが、どうしようもなく、
元夫は「葦刈らずして、走り隠れ」てしまいます。

その後、奥方はこのことを人に語ることはなかったけれど、
この話が伝わっているのは、奥方が年を取ってから後に語ったからだろう、
「まったく、人間というものは前世での報いも知らずに
愚かにも現世での身の不幸を恨むものだ」、と結んであります。
キビシイなぁ!

現世での宿命はあらかじめ決まっているんだから、
この芦刈の夫みたいに努力したってダメだよという価値観の時代だったら、
それでも「よっしゃー頑張るぞ!」と腕まくりする気にはなれないだろうなぁ。

それより、この「今昔」のすごいところは、
元夫と再会した妻の心理状態の変化を、短い表現できびきび書いているところ。
「懐かしい、せめてひと目会いたい!」から、
「情けない、こんな惨めな姿になって(嫌悪感)」
「悲しいけど、今の自分にはどうすることもできない(自己保身)」

物語の最初で、この二人は泣きながらもお互い納得して別れている。
再婚した摂津の守は、妻に家中の万事を任せきっていた、というくらいで
夫婦仲も信頼関係で結ばれた円満なものだったとうかがわれるし、
この再会の場面では、守も彼女の横にいたはずなのです。
だとしたらなおさら、尾羽打ち枯らした元夫に戻るなんてありえない。
(とはいえ、彼女は晩年まで元夫を忘れることはなかっただろうと思います)

理性と感情の葛藤が、最終的に理性の勝利に終わる物語。
残酷なまでに救いがないだけに、かえって説得力があります。

格差社会なんていわれる現代でも結構ありそうな話で、
私がこの妻(夫)だったら・・・と考えさせられてしまいます。