川を渡る女

このブログも、とうとう99本目まできました。
内容はともかく、ここまで続けてこられた事自体は我ながらエライ!

百目前といえば、連想するのは「卒塔婆小町」の深草少将。
百通の恋文を送った暁には、想い人を我がものとする願を掛けたものの
満願目前の九十九夜目にして、凍死してしまうという話。
あー、こんなにあっさり百本書けそうなら、私も願掛けとけばよかったかなあ。
(でも死んじゃうのはいやだなあ)

で、深草少将にちなんで・・・じゃないけど、今回は川を渡る女の話。

明日(もう今日か・・・)、「道成寺」を観に行ってきます。
去年の夏、サントリー美術館「水と生きる」展で道成寺縁起絵巻を見まして、
大蛇と化した清姫が鐘に巻きついて、安珍を焼き殺す場面より
清姫が川を二度渡る場面で、川を渡ることで人間にあらざる者に変わっていく様が
インパクト強かったのです。
なんだか「川を渡る」という行為が、もといた世界に引き返せなくなる象徴のようで。

それで思い出したのが、万葉集但馬皇女の歌。
天武天皇の皇女にして、親子ほど年の離れた異母兄・高市皇子の妃であった彼女は
同世代の穂積皇子と禁じられた恋に落ちます。で、二人の関係が露見して詠んだ歌。

・人言を繁み言痛みおのが世に いまだ渡らぬ朝川渡る
 (人の噂が煩わしいので、いまだ一度も渡ったことのない夜明けの川を渡るのだ)

この「朝川渡る」は、実際に川を渡って穂積に会いに行ったのではなく、
「川=世間の常識」を越えても、愛する人と結ばれたいという意味だという説
「浅い川=裾をぬらして渡る」から、涙にかきくれる様子だという説
・・・などがありますが、
私は、「この恋は、もう引き返せないのだ」という意味じゃないかと解釈しました。
但馬皇女は、すくなくとも泣き暮らすだけの女性ではなかったようで

・後れ居て恋ひつつあらずは追ひしかむ 道の隅(くま)みに標(しめ)結へ我が背
  (このまま残されて恋焦がれているよりは、あなたを追って行きます。
   道がわかるように、角々に印をつけておいてください。あなた)

こんな情熱的な歌も遺しています。なかなか強い意志を持つ女性だったみたい。
こういうストレートな人、女子としてうらやましい*^^*
肝心の穂積の返歌は残ってないので、彼が但馬の情熱をどう受け止めたのかは不明。
でも、但馬が亡くなった後、穂積が彼女の葬られた岡を見上げて詠んだ歌は。
烈しい恋に添い遂げるには、やさしくて穏やかな人柄の彼だったのかも。

・降る雪はあはにな降りそ 吉隠(よなばり)の猪養の岡の寒くあらまくに
  (雪よ。そんなに激しく降らないでおくれ。
   あの人の眠る、この吉隠の猪養の岡が寒くなるではないか)


元来、川は国境や土地の境界線を表すもので、転じて心理的な境界線でもありました。
時代や身分が違っても、但馬皇女清姫も外出などめったにできなかったはずで、
そんな彼女たちにとって、男のために「川を渡る」ことこそ
内面的な「越境」でもあり、所属していた世界との決別でもあったのではないでしょうか。
結末は悲劇でもストレートに表出してしまうあたりが、同じ情熱でも
自ら作り上げた妄想に自滅してしまう深草少将との違いだと思います。

ああ、今日の記事はなんだか濃くなっちゃったな。

ところで。そんな川が目の前にあったらどうしよう。
渡ってみたいような、怖いような・・・(←杞憂というより妄想^^;)。