「西行花伝」(辻邦生/新潮文庫)
保元の乱をピークとして、西行が生きた平安末期~鎌倉幕府成立までの時代の空気が生き生きと描写されており、ぐいぐい引き込まれました。
群小領主と荘園領主の対立、摂関政治の制度疲労、天皇家の退廃・・・が武士の台頭を促し、公家社会から武家社会へと権力が移っていく様子が、MRの断面図のようにわかりやすく描かれています。
辻さんが描くと、そんな「激動の時代」も美しい交響曲のように感じられます。
時代考証の確かさ、緻密な構成力、そして優婉な言葉が長編をしっかり支えているのです。
群小領主と荘園領主の対立、摂関政治の制度疲労、天皇家の退廃・・・が武士の台頭を促し、公家社会から武家社会へと権力が移っていく様子が、MRの断面図のようにわかりやすく描かれています。
辻さんが描くと、そんな「激動の時代」も美しい交響曲のように感じられます。
時代考証の確かさ、緻密な構成力、そして優婉な言葉が長編をしっかり支えているのです。
辻さんが本当に書きたかったのは「想像力」「言葉」の力じゃないかと思います。
想像力あるいは想像力による言葉、が人間の生命を支える上でいかに力になっていることか。
そうした辻さんの「文学とはなにか」の答えが、この「西行花伝」のテーマかもしれません。
想像力あるいは想像力による言葉、が人間の生命を支える上でいかに力になっていることか。
そうした辻さんの「文学とはなにか」の答えが、この「西行花伝」のテーマかもしれません。
全編を通して印象的なのは、「歌」によって心の救済を得た待賢門院(女院)と
「歌」を棄てることで、生きながら地獄に堕ちていった崇徳院の物語。
義清(西行)と女院の恋は、現世では一夜限りの逢瀬しか叶わないものでした。
それでも、女院は義清の「歌」に共鳴することで、自らの不幸な生涯をもありのまま
受け入れていきます。想像力による言葉の力で、彼女は自分をとりまく過酷な現実から
解放されているのです。「もう一度人生を選べるとしたら、やはりこの人生を選びたい」
という晩年の言葉がせつない。
「歌」を棄てることで、生きながら地獄に堕ちていった崇徳院の物語。
義清(西行)と女院の恋は、現世では一夜限りの逢瀬しか叶わないものでした。
それでも、女院は義清の「歌」に共鳴することで、自らの不幸な生涯をもありのまま
受け入れていきます。想像力による言葉の力で、彼女は自分をとりまく過酷な現実から
解放されているのです。「もう一度人生を選べるとしたら、やはりこの人生を選びたい」
という晩年の言葉がせつない。
一方で、現世の執着に抗しきれず「歌」を棄ててしまった崇徳院の末路は哀れです。
小説の中で、西行は「歌による政治(まつりごと)」を何十回も繰り返し訴えていますが、
「歌」(想像力、言葉)を失って、現実にも政治的敗者として生きる崇徳院には
この状況下に置かれたら、私だって同じことをしちゃうかも…と思えてくる。
院は「弱い人」かもしれないけれど、保元の乱で追い込まれた彼が生まれて初めて
鎧を着ける姿は悲壮で愚かで、でも美しい。
「歌」に生きる西行も素敵なヒトかもしれないけど、最後の最後で、「歌」を棄てて
「現実」を変える方を選ぶ院に、私は共感してしまいました。私が未熟なせい??
崇徳院の物語って、能にならないかな。能らしい題材と思うんだけどなあ。
小説の中で、西行は「歌による政治(まつりごと)」を何十回も繰り返し訴えていますが、
「歌」(想像力、言葉)を失って、現実にも政治的敗者として生きる崇徳院には
この状況下に置かれたら、私だって同じことをしちゃうかも…と思えてくる。
院は「弱い人」かもしれないけれど、保元の乱で追い込まれた彼が生まれて初めて
鎧を着ける姿は悲壮で愚かで、でも美しい。
「歌」に生きる西行も素敵なヒトかもしれないけど、最後の最後で、「歌」を棄てて
「現実」を変える方を選ぶ院に、私は共感してしまいました。私が未熟なせい??
崇徳院の物語って、能にならないかな。能らしい題材と思うんだけどなあ。
そして、随所に流れる「楽」の音。
辻邦生の小説って、とっても「音楽」を感じさせるのです。
一の帖で、西行の母がお囃子に合わせて笛を吹く場面があるのですが
これが本当に、物悲しげな笛の音と鼓の乱打が聴こえてきそうな描写なんです!
辻さんのお父様は薩摩琵琶の奏者なんだとか。やはり「血」なのでしょうか・・・。
辻邦生の小説って、とっても「音楽」を感じさせるのです。
一の帖で、西行の母がお囃子に合わせて笛を吹く場面があるのですが
これが本当に、物悲しげな笛の音と鼓の乱打が聴こえてきそうな描写なんです!
辻さんのお父様は薩摩琵琶の奏者なんだとか。やはり「血」なのでしょうか・・・。
(あー、お囃子聴きたくなってきちゃった。来月の「歌舞音曲」が待ち遠しい!)