阿吽

話が二週間近くさかのぼりますが、先日のお囃子「コンサート」で
開演前にお囃子のCDを衝動買いしてしまいました。
こないだの出演者の方々のです。Amazonでも入手しづらい盤なんだとか。

日常感あふれる部屋で、お囃子聴くのってすごい違和感あるけど、
ヘッドホンつけて「耳」だけでお囃子聴いてると、
お囃子が 洗練された前衛音楽のように聴こえてくるのが新鮮でした。
故・黛敏郎さん(「題名のない音楽会」って番組に出てた方です)が
笛と大小鼓の編成で『阿吽』という室内楽曲を作曲されてますが
「間」とか「阿吽の呼吸」を、当時前衛の(西洋音楽の)手法で表現したかった
と言ったとかいう話を思い出しました。

・・・こーんなこと書いてるくせして、実は『阿吽』聴いたことないのです(^_^;)
故・岩城宏之さんの本に、『阿吽』初演当時は楽譜が読める囃子方がいなくて、
自分と黛さんが付け焼刃で「なんちゃって鼓方」をつとめた話が出てくるんです。
(笛はピッコロで代用したのだそう)

でも、西洋音楽という、文法のかっちりした世界に住んでいた人が、
初めてお囃子を聴いた時のショックって、大きいと思うのです。
突然始まって、次の展開が予想できず、唐突にピタッと終わる・・・。
私がお囃子に魅力を感じつつも、最初なかなかなじめなかったのが、
この「予測できない、法則性がつかみにくい楽曲の進行」でした。
西洋音楽は、楽曲の構成に論理的な決まりごとがあるから(一般論として)、
初めて聴く曲でも、「あーこの曲そろそろ終わるな」とか、ある程度予想がつく。
そういう聴き方が通用しないのがお囃子。
まぁ、回数を重ねていくうちに、お囃子にも法則性らしきもの(?)を
感じられるようになってきたのですが・・・。
(注・お囃子が楽曲として非論理的だといってるワケじゃありませんよ)

ときどき、クラシック音楽能楽のコラボなんて企画を目にすることがありますが
これだけスタイルが違うのに、どうやって共演するんだろう??
演奏スタイルの歩み寄りが問題になりそう。というか、
「シャケの塩焼き&パン」みたいな組み合わせになりそうな気がするけど・・・。

シテ方の舞&クラシックの演奏家なら、ありだろうな。

笛方のソロ&クラシックも、がんばればどうにか。

大小鼓・太鼓&クラシックは・・・うーーーーーん。
やっぱり、要諦は「間」と あの掛け声でしょうか?