「オリエンタリズム」(E・サイード/平凡社ライブラリー)

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以前、ラフカディオ・ハーンの「怪談」を記事に書いたところ、
かたつむり殿さんから平川本(比較文学者の平川祐弘氏の訳本)を教えていただいたり、
ラ・フランスさんから丁寧なコメントをいただきました。
まずはこの場を借りてお礼申し上げます。

前回の記事では、ハーンは封建社会の犠牲者の話を、誠実な情愛に裏打ちされた、古きよき時代の美しい日本の物語として理想化して描いている、それはハーンの経歴によるものではないか…と書きました。
その後読んだ平川本は原典も載っている面白い本なのですが、原典を読んだ後であらためて「怪談」を読むと、オリエンタリズムの匂いを感じるのです。

オリエンタリズムとは、パレスチナ出身の批評家E・サイードが著書「オリエンタリズム」で提起した、西洋が専制的な意識によって生み出した東洋理解を意味します。
その思考様式を要約すると、

●近代ヨーロッパは<東洋><西洋>を対立するものとしてとらえ、東洋を支配されるもの、後進的、受動的、官能的なものetcとして、東洋のイメージをつくってきた。
●しかし、中東から日本に至る諸地域を一括して「東洋」と呼べる根拠は、いかなる観点(地理、言語、宗教、文化など)からも存在しない。「オリエントとは、むしろヨーロッパ人の頭の中で作り出されたもの」なのである。
●それは西洋の、植民地支配する側が自らをその反対のイメージとしてとらえることで、自らのアイデンティティを確立し、被支配者側を管理するためのものだった。

本書ではオリエンタリズムのひとつとして、「東洋」あるいは自らよりも劣っていると認識される国や文化を、性的に搾取可能な女性として描く、という傾向も絵画や文芸作品を例に挙げて批判されています。
日本でいえば、「ゲイシャ」や「蝶々夫人」あたりでしょうか?

で、「怪談」に戻ると、私が「これってオリエンタリズム?」と思ったのは『和解』。
貧しさから妻を捨てた男が、都で富豪の娘と結婚して出世するが前の妻を忘れられず、
何年かぶりで昔の家を訪ねたら、妻は変わらぬ姿で迎えてくれ、一夜を過ごした。
翌朝、隣に寝ていたのは白骨化した妻の死骸。
妻は夫にさられた後ほどなく困窮死し、弔う人もないまま放置されていた…という話。
原典では、隣人から妻の最期を聞いた夫は恐怖のあまり妻の死骸を放置して逃げるのですが、
「怪談」では夫の対応はカットした上、『和解』というタイトルをつけている。
それってホントに「和解」なの?男に都合よく編集されてない?と思ったのだけど、
日本的で古風な美徳を持つために、夫の不実に耐え抜いて死んでいく「ハル」も読んで
ハーンの作品にもオリエンタリズムがあるんじゃないか?と思ったのです。

意地の悪い見方をするならば、ヨーロッパ人としてはマイノリティに属するハーンが
「日本の面影」を創作し続けたのは、そうした<東><西>の優位関係において、
自らの帰属する場所をつくるためだったのだ、ということもいえるのかもしれません。
(追記:ハーンがそうした優越性を意識していたかどうかは別として)

この記事を書く際に調べたところ、ハーンのオリエンタリズムに対する批判は研究者の間では
とっくに議論されているようです。
でも、この視点は本当にハーン(西洋側)だけの問題なんだろうか?

オリエンタリズム」は、近代国文学ゼミのテキストとして出会いましたが、日本文化に興味を抱くようになった今読み返すと(といってもナナメ読みですが)、自分の視点の持ちように気づかされることがあります。

それは、知らず知らずのうちに自分が<西洋>の視点をも併せ持って、「日本的なもの」を見ている、ということ。
最近の和風ブーム(日本回帰現象)も、実はオリエンタリズムの裏返しかもしれません。

自分の立ち位置、視点も考えさせられるこの本、上下巻で1,000ページ近くもありますが
上で挙げた要点のほとんどは上巻でわかりやすく述べられています。
こんな刺激的で、なかなか売れない本を長年ラインナップにしておく出版社には頭が下がります。

※以前書いた「怪談」はコチラ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/yamaneko_ken93/42912422.html