銕仙会 二月定期公演

能「隅田川
シテ    山本 順之
子方   小早川満子
ワキ    工藤 和哉
ワキツレ 舘田 善博       
笛      中谷  明
小鼓    曾和 正博
大鼓    國川  純       
地頭   野村 四郎  
後見    観世銕之丞

狂言「鐘の音」
シテ    野村  萬
アド    野村 扇丞

能「須磨源氏」
シテ    浅見 慈一
ワキ    大日方 寛
ワキツレ  梅村 昌功  御厨 誠吾
アイ    小笠原 匡       
笛      一噌 隆之
小鼓     幸  正昭
大鼓     佃  良勝
太鼓     助川  治
地頭    浅見 真州
後見    北浪 昭雄


今年の春一番が吹きすさぶなか、銕仙会へ行ってきました。
平日の夕方にもかかわらず能楽堂はほぼ満席。

なんといっても「隅田川」がすばらしかったです!
山本順之さんは昨年9月の袴能「卒塔婆小町」の印象が鮮烈だったので、この舞台は楽しみにしていました。で、今回はあえて「隅田川」のみのレビュー。
(それでも長文・・・ ^_^;A)


隅田川」あらすじ(銕仙会HPより)
春の隅田川。人商人にさらわれた我が子梅若丸を探し、狂女となって遥々この地までやって来た都の女は、一年前にこの地に捨てられて死んだ幼子が梅若丸だと知り、泣き伏す。
 女が我が子の墓前で鉦鼓を鳴らし、念仏を唱えると、やがて塚から梅若丸の亡霊が姿を現す。思わず駆け寄る女。だが無情にも我が子に触れることは適わず、幻のように姿を消してしまう。やがて白々と夜が明け、後に残るはただ草茫々たる塚だけであった…。
 観世元雅がそれまで遊興性の高かった物狂能に悲劇性を付加し、完成させた傑作能。


冒頭のワキ(舟渡守)の名乗りでは大念仏が行われることにはふれず、先日の大雨で川の水嵩が増えて危険だから一人二人くらいじゃ渡さないぞと謡っているところが謡本と違いました。早くもシテの旅の困難を予想させます。
名乗りを聴いたときは「お流儀によって詞章が違うのかな」程度に思っていたのですが、舟の中で真相が明らかになる場面で「あっなるほど」と感心しました。冒頭で大念仏(=梅若丸の一周忌の法要)にふれないことで、中盤での劇的効果をねらったのだな、と。

シテは、グリーンの勝った薄いカーキの水衣、氷のようなシャンパンゴールドの摺箔、濃紺の地に流水と花をあしらった縫箔に、女笠をかぶって登場。手には狂女のシンボル・笹を持っています。
面は、大和作の「深井」から近江作の「深井」に変更した旨、出入口に貼り紙がしてありました。
床に反射した照明が、笠の下の「深井」を足元からスポットライトのように仄かに浮かび上がらせているのが私の位置からはっきり見えます。前正面席争奪戦で「かぶりつき」になったのも、こうなるとラッキー♪斜め下から見上げることで白目や鼻筋がきわ立ち、目尻がすこし吊り上ったように見える顔は、感情がきわまって放心している様にも映り、なんとも妖しい美しさ。

シテは一の松のあたりで「聞くや如何に。うはの空なる風だにも」と笠を少し上げて謡い出すのですが、指先や視線を向ける先に、武蔵野国境の荒涼とした風景が広がっているのが見えるよう。
順之さんの集中力は、登場人物の内面へ内面へ入り込んでいくような印象で、もう目も耳も離せません!静かな熱演型、といったらいいのかも。

事前に謡本に目を通したときはわからなかったけれど、実際に謡を聴いてみて「墨田川」は前半の謡こそが聴き所なんだなあ~と気づかされます。前半では 都から東国の果てまでの、気の遠くなるような距離が繰り返し強調される。それは物理的な距離だけではなく、心理的・文化的な距離の長さでもある。ワキツレの道行、シテの上歌、ワキとの掛け合いで「距離の長さ」を繰り返し確認することこそが、悲劇の伏線なのだと理解できるのです。
「東くだり」をモチーフにしたワキとの掛け合いは、業平の古歌を取り上げることで、彼女の中で歌の世界の「隅田川」と現実の隅田川との乖離が増してくる感じがすごく伝わってきました。この場面、シテに都の人間の優越感というかプライドの高さが感じられただけに、ワキの「あれはカモメでしょ」という答えに「ああ、遠くまできてしまったのね・・・」という疲労感があらわれてた気がする。そして、ワキによって語られる一年前のわが子の死。

都の人の足手影も懐かしう候へば

この言葉、悲しすぎる・・・。「都の人であれば、手や足の影でさえ懐かしく感じられるので、路傍に葬ってほしい」だなんて。あの時代、梅若丸と同じような運命をたどった子どもたちが大勢いたはずで、そうした子が実際に遺していった言葉なのかもしれません。
放浪の果てにたどりついた塚の前で、シテが「この土を返して今一度」と体の奥から湧き上がるような低い声で嘆く場面。お墓に春草が生い茂っているのって、子どもの死という(当事者にとっての)切実な悲劇とは関係なく、新しい生命が春を謳歌している不条理さが一層際立ちます。

そんなわけで、子方が登場して正直ほっとしました。子方を出さない演出もあるそうだけど、私は子方を出した方がカタルシスがあるんじゃないかな~と思いました。
はかなく悲しい夜が明けていくキリで、シテが両手を伸ばして塚から生えた蔓草に触れる姿がせつない。
演者が次々と退場していき、お囃子の最後の一人が三の松まで下がるまで、拍手が鳴らなかったのもよかったです。珍しく、見所の空気がひとつになっていたような気がした舞台でした。


(本日のおまけ☆)
子方の小早川満子ちゃん、長時間こもっていたためか、ほっぺを真っ赤にして登場(*^▽^*)
こないだ東京観世会でも見かけたけど、お父さんの舞台を観にきてたのね~。
お父さんは地謡の後列左端にいて、もちろん塚の方なんかちっとも見てないんだけど、なんだかほほえましかったです♪