徹の笛-「第3回福原徹演奏会」より-

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☆徹の笛-「第3回福原徹演奏会」より-
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第二番より「シャコンヌ
  笛 :福原徹 /チェンバロ :中川俊郎
・男性独唱・笛・尺八のための三章「草の祈り」(福原徹)
  独唱 :小早川修 /笛 :福原徹 福原徹彦 福原 寛/ 尺八 :養源寺 恵介
地歌「ゆき」
  笛 :福原徹 /蔭囃子 :福原百之助
・笛・太棹・ピアノのための三重奏曲(福原徹)
  笛 :福原徹 /鶴澤津賀寿 /ピアノ :中川俊郎

(※2006年11月2日 紀尾井ホールでのライヴ・レコーディング)


紀尾井ホールには去年、亀井広忠の「歌舞音曲」に行っただけなのですが、洋楽用ホールで行われたせいか、客層も(追っかけは別として)普段お能観てる人たちとは明らかに違っていて、
クラシック音楽ファンらしき人たちもちらほらいた記憶が。

このCDに収録されたリサイタル、作曲者・演奏者とも(ピアニストを別にすれば)、能楽師長唄囃子、義太夫といった邦楽畑の人たちばかりですが、西洋音楽に親しんだ耳にもすんなり入るような雰囲気で、邦楽を聴くときの「違和感」は少なめ。
「邦楽」の中でもジャンルの異なる彼らが、ときには西洋音楽の「文法」も取り入れて演奏しているのには驚かされるけれど、これが意外と(失礼!)面白い演奏でした。

中でも独自性の強さを感じたのは、戦争に斃れた若い兵士の語りを、能楽師長唄囃子の笛方、尺八で表現した「草の祈り」。
兵士の霊の語りは時代も場所も不特定なのだけど、「死」と「生」、「殺されるもの」と「殺すもの」がそれぞれ両義性を持つ世界が描かれる。
<彼>のいる「場所」は、日々幾多の死を生産する異国の戦場であり、空や雲が清らかに輝き、新しい生命(草)が芽吹く草原でもある。また、殺された<彼>自身、幾多の命を奪っていった加害者でもあるわけで・・・。
「八島」を観たとき、勝者のはずの義経がなぜ成仏できないのか?と思ったのだけど、現世でひとたび戦った者は勝者も敗者も地獄に堕ちるのが修羅能ならば、この「草の祈り」も新しい修羅物なんだろうか。
お能なら僧の祈りで成仏するところを、この作品では<彼>の体を苗床にして芽吹く草(新しい生命)がワキ僧の役割を果たしていていて、成仏→輪廻転生→仏教思想って考えれば、これは
やっぱり能楽師による語りじゃなくちゃ!と作曲者は考えたのかもしれない。

独唱の小早川さんは、「ことば」をとても感じさせる謡い方をする方だなあ~と思って拝見してきたし、ご自身の会でも「語り」のウェイトが高い曲が多いようなので、こういう舞台に立たれていたと知っても驚きませんでした。
この「草の祈り」は、あくまで謡の発声法で現代語の詞を語っているのだけど、笛のメロディラインに沿った「歌」が多くて、彼が明らかに「歌って」いるのがなんか不思議な感じ。その箇所だけ、謡と歌曲のあいまいな境界線に立っている印象で、これは評価が分かれるかもしれないなあ。このへんに謡でどれだけ現代語を表現できるのか、といった難しさがあるような気がする。でも終曲の「星」、お能でいえばキリにあたる(成仏する)ところは、やっぱりここはお能でしょ!という謡い方をされてましたね~。草の芽吹きから魂の救済を得る「星」は、とてもデリケートかつ説得力のある語りで、小早川さんの「声」お目当てでCD買った私としては、満足でした♪

そして、地歌「ゆき」。もと笛吹き(のはしくれ)の私、実はこの演奏が一番好きです。
最初聴いたとき、「え?フラウト・トラヴェルソ??」と思ったくらい、この長唄囃子の笛はフルートに通じる響きがありました。
能楽囃子の能管は歌口が大きく息もれが多いため、フルートに比べて力が相当かかる吹き方をするのですが、長唄の笛は楽器が違うせいか能管よりやわらかく自然な吹き方しているな~といった印象です。
笛の優雅で寂しげな響きに、蔭囃子の どん・どん・・・という空気の底から響いてくるような音は、つい繰り返して聴いてしまいます。
夜の闇から舞い落ちてくる雪の華、しんしんと更けていく冬の夜。
新潟で過ごす冬の晩、障子の向こうで夜の空気が次第に密度と静寂を深めていく気配をよく感じたものですが、その空気感を思い出させる演奏でした。

このリサイタルを能楽堂でやってみたら、どんな風に聴こえるのか、ちょっと興味があります。