第三十一回「近藤乾之助 試演会」

仕舞「八島」
 宝生 和英

狂言富士松
 太郎冠者:野村 万之助
 主    :石田 幸雄

袴能「松風」
 シテ:近藤乾之助  
 ツレ:大坪喜美雄
 ワキ:宝生欣哉
 アイ:深田博治
 笛 : 藤田六郎兵衛
 大鼓: 亀井忠雄
 小鼓: 住駒幸英
 後見:今井泰男 宝生和英
 地頭:三川泉

(※6月2日 宝生能楽堂

前に読んだ「ロダンの言葉」と云う本の中にたしか「線と云うものはない、それは内なる物のひろがり」すなわちそれが表面に線を表す。
流儀の故田中幾之助先生が「型はこうだよ」と云われ、楽屋で型を見せていらした時、体全部が線(先端)に見えたのです。手先、足先ではなく、肘、小指、踵、背中、内なるものが型をつくるのではないか、それが線では・・・今でも考えております。
                                            (近藤乾之助)

いきなりロダンをパンフレットの後記に登場させちゃうあたり、カッコイイですね!
下書きをまとめる暇もないまま、他の公演等の記事が先行してしまいましたが、ようやく掲載。
まさに「内なるものが型をつくる」という言葉がふさわしい舞台でした。

能楽堂で手にしたパンフの「近藤乾之助」「袴能」「松風」の単語を目にした次の瞬間、受付にダッシュして(←うそ)チケットをゲットした公演です。

仕舞「八島」
実はご宗家の舞台を拝見するのは初めてです。一時期、月並だ五雲だと通ってた割には 
ご宗家とはすれ違いの私。。。
で、「八島」。扇を手にすっと立ち上がった姿は、後見座で拝見していたより小柄で華奢な方でしたが、謡い始めの第一声が胆の据わったよいお声。23歳という年齢よりずっと大人な雰囲気です。足拍子をたん!と踏む型も滑るような足の運びも、きりりと若々しく快い緊張感がみなぎって、幕開け(?)にふさわしい仕舞でした。


「松風 /脇留」
仕舞、狂言各一曲の後、休憩を挟んで「松風」。すっきりした番組構成でいい感じです。
「松風」は田舎に流浪する貴人と現地の女の悲恋をモチーフにした貴種流離譚。必ず帰るという歌と狩衣を残して去った男(在原行平)が戻ることなく亡くなったので、行平の寵を受けた松風・村雨という海女の姉妹の亡霊が死後も思いを訴えに現れるという物語です。

乾之助さん、足の運びにちょっとドキドキさせられる場面はありましたが、橋掛かりから舞台に一歩踏み出すと舞台の空気が変わってしまう。「黒塚」もそうだったけど、身分の低い海女のはずなのに、乾之助さんの松風は気高さというか威厳を感じさせるんですね~。謡も気品があって実に端正。決して押し出すような感じの謡ではなくて、気をすーっと一点に引きつけていくような謡い方なのが印象的。ツレとの謡もまるで一体のように息が合っているのが姉妹(?)っぽいといえばいえるかも。「月はひとつ、影は二つ」のくだりは、一人の男の寵を分け合った松風・村雨姉妹の姿を象徴しているのかな・・・。

乾之助さんが行平の形見の衣を取り出し、「形見こそ今は徒なれこれなくは 忘るる暇もありなんと」(形見こそ今はかえって無用なものだ、これさえなければ少しは忘れる時があるだろうに)で、衣を捨てかけて抱きしめるくだり、もう何十年もこの衣をいとおしんで過ごしてきました・・・といった雰囲気。ビジュアルは81歳の乾之助さんなのに、何の違和感もなく、美しい松風に見えるんですよ~。海女というよりは、低い身分ながら美貌と気高さを光源氏に愛された、明石の上のイメージに近いです。

松が行平に見えてきて、村雨に止められるハイライトでは、割とハッキリものを言う現実派の村雨&確信犯的(?)松風といった感じ。あの静かな口調できっぱりと「あの松こそは行平よ」と言われたら、気の弱い私なら「わ、私の方が間違ってるかも・・・」と思ってしまいそう(^_^;A
理知が勝っていて それなりに論理性のある言い分だけに、かえって狂気の深さが感じられるというか。
大小の緊迫感ある掛け合いが、抑えていた感情を一気に昂らせていきます。こういう大小の奏し方って、どんな言葉よりシテの内面を雄弁に物語っているようで、これぞお能~!と思います。
澄みきった大鼓の響きと、ぴーんと張りつめた感じの小鼓のコンビが やや硬質な響きだったのに対して、濃密にうねるような笛とのバランスが面白かったです。

小書「脇留」は、シテは破の舞に松を廻らず「暇申して帰る波の」で作り物の松を廻って橋掛かりに出て、最後にワキが舞台に残される演出。さまよえる魂となり、暁の海風に乗って姿を消しつつも、愛しい松に最後まで寄り添っていたい・・・というように見えます。

それにしても、袴能っていいですね~。もちろん演者を選ぶのでしょうけど。
面や装束がない分、演者そのひとの謡・舞にフォーカスして堪能できるというか。
以前、上村松園の「草紙洗小町」の下絵を観たことがありますが、きわめて完璧な線描で 下絵自体がすでに作品というか、生命を持っているように感じられたのを思い出します。
高村光太郎訳「ロダンの言葉」、図書館で借りてこようかしら・・・。