九月 銕仙会定期公演

狂言「業平餅」
シテ 在原業平  山本東次郎
アド    三位  山本 則孝
       稚児  水木 武郎
       随身  山本 則重
        〃   山本 則秀
       沓持  山本泰太郎
      長柄持  若松  隆
        餅屋  山本 則俊
         娘  遠藤 博義

能「定家」
シテ    観世銕之丞
ワキ    森  常好
ワキツレ 舘田 善博
〃   森 常太郎
アイ    山本泰太郎       
笛      杉  市和
小鼓    幸 清次郎
大鼓    柿原 崇志       
地頭    浅井 文義
後見   野村 四郎  清水 寛二
(※9月11日 宝生能楽堂


今日(11日)は、宝生能楽堂のロビーに真野響子さんがいらしてました!
(「花供養」でアイをつとめていた女優さんです)
青みがかった濃いグレーの地にベージュのお花を散らした着物に、薄の穂のような色合いのベージュの帯を締めたお姿、TVで見る以上にお美しい方でしたよ~~!
あの後、てっつん(=銕之丞)にご挨拶されたのかしら・・・。

・・・は、さておき。

今年の秋は、私の好きな東次郎の狂言と「定家」でスタート。
この日の番組は、在原業平式子内親王藤原定家歌人を題材にしたもの。狂言で欲望に翻弄される愚かな人間を、能で妄執に苦しむ人間の精神を描くという対比をお楽しみくださいませ・・・ということなのでしょうか。

「業平餅」
狂言の定番ともいえる<盗み食い&言い訳>物と、「二九十八」にみられる<嫁取り>物を合わせたようなオハナシ。餅を盗み食いするのも、早とちりしてブスを娶ろうとして大慌てするのも東次郎扮する在原業平です。貴族の無知と図々しさ、男の身勝手ぶりがこれでもかとばかりに出てくる話ですが、それが危ういところで滑稽さに転じているのは、やはり東次郎に負うところが多いのでは。
餅を盗み食いする場面は、手のひらでくるくる回しながら口に押し付けて、作り物(?)を小さくしていたのですが、「あれはマシュマロ?」「綿飴??」と見所でヒソヒソ話が。薄くのばした綿ではないかと思いましたが、なんだったんだろう??


「定家」
前々からひそかに、お能ってエロだなあ・・・と感じておりましたが、そういう意味では「定家」は陰鬱な退廃美のきわみのような曲じゃないかと思います。
なにしろ、式子内親王との忍ぶ恋に落ちた定家が、死後も内親王の墓に葛となって纏わりつき、ともに邪淫の妄執に苦しむ・・・という内容。紅葉した定家葛が隙間なくみっしりと絡みついた石塔に、神無月の冷たい時雨が降り注ぐ~~って描写なんてヴィスコンティも真っ青ですよ。この曲を創った金春禅竹の感性はスゴイと思います。

・・・以上はあくまでテクストに対する私の「ブンガク」的感想で、舞台の感想とは別。
もちろん銕之丞がヴィスコンティやってたわけでもありません(当たり前)。

今日の銕之丞は、前場は途中で声がかすれたりして、喉の調子が悪いのをこらえて頑張っていたような感じ。前シテの面は節木増でしたが、宝生の増に比べてたおやかというか生身の女に近い雰囲気で、頑張っている銕之丞の姿とあいまって、よくも悪くも人間的な内親王・・・といった印象でした。
そんなわけで、ワキとの掛け合い・地謡の情景描写はそれなりに楽しみつつも、正直それほど期待していなかったのですが、「我は式子内親王」からガゼン面白くなってきました。
このときのシテは、金茶色の地に 朱や金で菊などの秋の花をあしらった唐折、縫箔も似たような色合いのものを着けていたのですが、塚の引き回し(ウコン色の地に萌黄の蔓草模様)を背にして立ったときに、塚と一体化して見えたのです。銕之丞がわずかに体を傾けながら塚の方へ一二歩後ずさりしたのが、まるで葛に絡み取られて否応なく引き寄せられた・・・といった風情で、塚の背後に回りこむ所作も本当にかき消えたよう。・・・「定家」の中入は、塚の作り物の背後で物着をするんですね~。幸清次郎さんが、てっつんのお着替えTimeを観察していたのをしっかり見逃さなかった私でした。

後シテは、秋草をみっしりと箔押しした透けるような白の長絹に、くすんだ朱の露を垂らした緋大口姿。面は泥眼です。かつて賀茂の斎院であった式子内親王の姿なのでしょうか。常好さんのつややかな謡を受けての「夢かとよ」の謡い出しも、調子を取り戻したみたい。
この日の銕仙会の地謡は全体的にモノトーンで、背景に徹してますといった雰囲気。謡本を読むかぎり退廃的な詞章も、舞台で聴くと細いペンで細密に描かれた風景画といった趣でした。お囃子も抑え目で、笛の音だけが線描のように細く尾を引いて響きます。
銕之丞の序の舞は、華やかさの中にも そのまま冬枯れの夕闇にかき消えてしまいそうな繊細さがあり、能楽座の「邯鄲」とは一見対照的ながら、こうした繊細さもやはり男性の強い肉体でないと表現し得ないのではないか・・・とも思ったのでした。
「這ひまつわるや定家葛の」で、シテはいったん塚の横から回りこむように入って正面から出、再び半周して反対側から塚に入り込んでそのままゆっくりと崩おれていくのが、内親王の屍骸が塚ごと葛に纏わりつかれながら埋もれていくようで、なんともいえない終わり方。
采女」といい「大原御幸」といい、能にはネクロフィリア(死体愛好)の要素があるのかも・・・?
今年はもう一回「定家」を観る機会があるので、そちらも楽しみです。