ヤン・ファーブル×舟越桂-新たなる精神のかたち(金沢21世紀美術館)

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今ごろ~?!って気もしますが・・・8月12日、金沢21世紀美術館に行ってきました。
ここに来るの、もう何回目なんだろう・・・?(笑) 2007年夏以降の企画展は欠かさず観てるはず。
 
さて今回は、21美の常設展示「空をはかる男」「昇りゆく天使たちの壁」でおなじみ(?)のヤン・ファーブルと、舟越桂の二人展です。
東西の、作風も訴求するものもまったく異なる二人の主要作品を並べるだけでなく、それぞれの創作の背景にある宗教的な古典絵画を展示することで、東西、古典と現代の「対話」を試みようというもの。古典と現代アートを「対話」させる企画は、ルーブルが続けてきたのだそうで、今回は2008年にルーブルで行われたヤン・ファーブル展「変貌の天使」を、21美という現代的な美術館でさらに膨らませて「東西」も対話させようというもの。・・・とまあ、いかにも的というか、わかりやすいコンセプトですね。
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展示室に入って真っ先に目に入るのが、ヤン・ファーブル「私自身が空(から)になる(ドワーフ)」
15世紀フランドルの治世者の肖像画に顔を打ちつけ、激しく鼻血(!)を流しているアーティストの自己像(ヤン・ファーブルはベルギー出身)。古典との葛藤・激しい格闘を表したものだそう。
写真では流血は控えめだけど、実物は血だまりの池の中に立っているんですよ~。すんごいリアル。
その姓が表すように、ヤン・ファーブルの曾お祖父さんはかの有名な昆虫記の著者。だからなのか昆虫の死骸を表面にびっしり張った天使や十字架やシャレコウベ(口には小動物の剥製をくわえています!)がいたるところに展示されていたり、血や汗で描いたドローイングが「殉教」をテーマにしたフランドル絵画と並んでいたり・・・。とにかく宗教色が濃厚。主要作品をざっと見ていて、つくづく西洋の「宗教」と個人のかかわり方って、日本とは全く異質なものだなあ~・・・というか、非常に闘争的。甲冑着て、自分の腕を切った血で壁にドローイングしちゃうパフォーマンス映像なんて、なぜかウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を連想してしまいました。
 
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そして舟越桂。近作の「スフィンクスシリーズ」も右端に見えます。
記事に書いといてなんですが、私は舟越桂ってあまり好きじゃないんです。クスノキを使った妙に生々しい体に、生気のない、うつろな眼をした顔が乗っかっていて。90年代に天童荒太の小説の装丁に舟越桂のトルソーが採用されたりして人気が出たという風潮自体に、なにか閉塞的で不健全なものを感じたんです。
だったら観に来るなよ、といわれそうだけど、こういう機会でもなければ「好き・嫌い」の選定基準でスルーしてしまう作家の作品なんて観(られ)ないからね。
 
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写真は、ヤン・ファーブルブリュージュ3004(骨の天使)」と、舟越桂「水に映る月蝕」。骨の天使は、スライスした人間の骨で表面を覆ったもので、東西キモチワルサ対決の極めつけともいうべき展示。
全体をさっと見て、舟越桂ヤン・ファーブルも強い「身体感覚」にもとづいて創作する作家だという印象を受けました。が、ヤン・ファーブルが自らの身体を傷めつけ「闘争」という形で訴えるタイプの作家ならば、舟越桂は言葉などの記憶のイメージを身体と一体化させることで、内向するタイプだと思う。90年代に市川浩などの身体論の本がかなりの点数出版された記憶があるけど、こうして文化圏や宗教観の違うアーティストの作品を通して両者の身体観の違いを目にできたのは面白かった。
ただ、古典作品(先行作品というべきか)とのコラボについては、「ヤン・ファーブル×15世紀フランドル絵画の殉教図」はともかく、「舟越桂×河鍋暁斎」っていうのは、ちと無理がないかい?この点に関しては、学芸員が「対話」というテーマにこだわりすぎたのではないかという違和感を感じました。
 
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21美の「うさぎ椅子」(←やまねこが勝手にネーミング)。
ここはじっくり回るとかなり時間がかかるけど、無料スペースのいたるところに面白いデザインの椅子があって、ついつい腰を下ろしてしまうんです。
 
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おなじみ、芝生のラッパ管。ここはいつ来ても、子どもの反応が新鮮で、子どもたちの動きを目で追ってしまう。私には子どもがいないし、別に子ども好きなわけでもないけど、21美のように子どもウェルカムな美術館では、彼らの反応が年齢によって変わってくるのは観ていて興味深い。
今回のヤン・ファーブルの作品に対しても、小学校高学年くらいになると大人と同じような(常識的な、ともいう)反応をしていて、10歳くらいまでが先入観なしにアートにふれられる限界なのかも。バイルンガルの外国語の習得と似てるかもね。