代々木果迢会 九月例会

小謡 浅見 真高
 
能「弱法師」
シテ :浅見 真州
ワキ :工藤 和哉
アイ :野村 万蔵
笛  :一噌 仙幸
大鼓 :國川 純
小鼓 :大倉 源次郎
主後見:長山 耕三
地頭 :武田 志房
 
狂言富士松
野村 萬
野村 扇丞
 
(※9月24日(金)代々木能舞台
 
春の「千手」に続き今年2回目の、代々木能舞台での果迢会。
都心のビルの谷間の住宅街にひっそりとうずくまったまま、そこだけは時の流れが違うような、この能舞台で過ごしたひとときが忘れられず、振替休日をとって「弱法師」を観に行ってきました。
ちなみに、今回も上京してきた母と同行しての鑑賞です。やはり代々木の「千手」に感動した母のお目当ては 「弱法師」だけど、翌日の東京観世会で家元の「松風」も続けて観て行こうということになり、贅沢な連休を過ごすことができました。
 
この日は真州さんの「弱法師」、ワキ・囃子も素敵な演者がそろったためか、開演30分前の時点ですでに前正面の席は満席で、私たちは脇正面(?)前方での鑑賞となったのですが、橋掛かりでの見所が多い「弱法師」にはかえってよかったかもしれません。開演時には見所に収まりきらなかった人たちが橋掛かりに面した廊下にまで座布団を敷いて座るほどの盛況でした。
ホール型の能楽堂と違って、この半屋外の舞台は音が上に抜けるためか、お調べの音が思いの外ちかく感じられます。小柄で上品な仙幸さんに続いて、長身の源次郎がいつものように腰を斜めに引きながら、すべるような歩みで橋掛かりに現れただけで、これから始まる舞台への期待にワクワクしてしまう(笑)。
 
やがて、橋掛かりに姿を現した弱法師は、真っ直ぐでつややかな黒髪を背中に流し、あどけなさを残した中性的な少年でした。シテが登場してすぐに見所側の照明を落としたので、夜の闇の中に舞台がぼうっと浮かびあがります。古い蛍光灯に照らし出された弱法師は、まるで月光の下に佇んでいるように見えるほど、品格(この言葉、あまり好きじゃないんだけど)が感じられます。文学的な見かたをすれば、弱法師が上品で美しいほど、彼が現在苦界に「在る」ことの悲劇性が際立つのでしょう。NHKの「海士」もそうだったけど、真州さんは品の高さを保ちつつリアリティのある演技(?)をされるのですが、このときの杖の使い方・ハコビは本当に美しかった。囃子も寂しげな感じで悪くはなかったけれど、楽しみにしていた笛がいまひとつ伸びに欠けたのが気になった。
 
天王寺の雑踏の中に(天王寺は今でいう福祉施設のはしりで、参詣人に混じって物乞いや身障者も数多く居たという)、梅の花の香りを感じ取り、見えない目の替りに言葉でその美しさを描き愛しむくだりは、弱法師の孤独の底をともに覗き込んだような哀しみがあって、私はここで涙があふれてしまいました。夜の闇を背景に目付柱の前に立ったシテの面は、半泣きのような眉とかすかに開いた口が妖艶で、その美しさが弱法師の落ちた地獄を物語っているようにも思えたのは、深読みのしすぎだろうか。
やがて自らの言葉に煽られたように「おう見るぞとよ見るぞとよ」と見えない目に浮かぶ難波の浦の景色を語るものの、盲目の哀しさで通行人に突き飛ばされて杖を落としてしまう場面、(たぶんワザとじゃなく)杖を手探りでさがすシテに後見がそっと杖を持たせていたのもよかったです。
その様子を物陰から見ていたお父さん(工藤和弥)も、なかなかいい感じというかリアルな存在感があって、シテとのバランスも絶妙。父と息子の取り返しのつかない断絶とやるせない哀しみが感じられる、人間くさいお父さんという感じ。これが閑さんだったら、いかにも能舞台に立っています的なお父さんになるかもしれないな。あ、それも悪くないけど。
 
寒かったし、このあと狂言を観る気分じゃなかったので、弱法師だけで帰ってきました。(それにしてもナゼこんな番組になったんだろう?)
久しぶりに、乾いた海綿に水がすみずみまで染み渡るような充実感を味わえた舞台でした。