運命の出会いかもしれなかった

ものごころついた頃から重度の活字中毒で、小学校高学年で遠藤周作の「沈黙」、高校生で倉橋由美子の「聖少女」や塩野七生ルネサンスシリーズ、マルグリット・デュラス、日本の古典文学を(ワケわからんまま)読んでいたような<ブンガク少女>だったので、おかげでリアルの友達の数が少ないまま現在に至っています。
それでも「この本こそ、私が読みたかった本なのだ!」という僥倖は、数年に一冊あるかどうか…。
 
堀田善衛の「海鳴りの底から」は、そんな数少ない<運命の出会い>のひとつで、長い年月の間にいくつもの偶然が重なった末に、この作品の文庫本は私の手に届くことに相成った。
 
中学受験を控えた夏。当時の私は遠藤周作の切支丹ものにハマっていて、小学校の図書室で ある児童文学書(?)を手にした。それは島原の乱一揆軍を裏切った絵師・山田右衛門の十代の長男の視点から島原の乱を描いたもので、最後に絵師の父親を除いて主人公も天草四郎もみんな殺されてしまうという内容だった。長い年月が過ぎたいま、その児童書のタイトルも作者の名前も忘れてしまったけれど、その本を読んでいる間、なぜかムソルグスキーピアノ曲展覧会の絵」が頭の中でえんえんとリピートしていた。子供向きに書かれたその作品の向こうに、なにかもっと奥深い何かが隠されているのではないか、と直感的に感じた。
著者のあとがきに「この作品は堀田善衛の『海鳴りの底から』にインスパイアされて書いたものです」という一行を読んだ私は、その何かを探すために市立図書館の保存庫から堀田善衛作品集を借りてきてページをめくり、軽い衝撃を受けた。最初の1ページ目に「プロムナード1 神神の微笑」とあったのだ。
 
かたちとしてはロシアの作曲家ムソルグスキーの音楽、「展覧会の絵」が私の念頭にあった。御承知のように、この組曲は作曲者がそぞろ歩きをしながら、つまりは”プロムナード”をともなって、展覧会の絵を眺めて行って、あれこれの絵に接し自分を投入できるものがあったときに、力一杯、そのなかに入って行って、そうしてその絵からうけたものによって、次の絵とうつるその歩み、”プロムナード”自体が、旋律は同じでありながら内実は次第に変質して行く、というかたちをとっている。
 
別の作家によって、児童書としてリライトされた島原の乱の物語を通して、オリジナルの小説を形づくる”音楽”が、堀田善衛はもとより島原の乱も何も知らない小学生の耳に届くということがあるのだろうか。
60年安保の年に文芸誌ではなく「朝日ジャーナル」に連載されたという「海鳴りの底から」は、もちろん小学生の手には届かない難物だったけれど、作品の放つメッセージを、潜在的に受容したということであれば、今理解できなくてもいずれは読むべき巡り合わせの本なのかもしれない。こうして「海鳴りの底から」は、私の記憶の書庫深くに未読のまましまい込まれることになる。
 
それから15年後、偶然手にした朝日文庫の目録から「海鳴りの底から」が文庫化されていることを知った私は、書店に問い合わせたものの既に品切れで、ただし博多の紀伊国屋には上下巻1組、店頭在庫があるという。なんという偶然か、その前日、同期のピンチヒッターで急遽、二日後に福岡出張に行くことが決まったばかりだったのだ!
ここまでくると、もう「呼ばれている」としか思えない。(そのまま紀伊国屋博多店に電話して取り置きしてもらったのはいうまでもない)
 
思い込みとか妄想と言われてしまえばそこまでなのだけど、相手が人間ならともかく本なんだからまあいいでしょう。
・・・・・・と思っていた、さらに数年後の夏、金沢に行くついでに高岡の町家建築でも観に行こう~~と足を延ばした伏木の気象台で、思いがけず堀田善衛の名前を耳にして、三度びっくり。伏木で一番大きな廻船問屋の生まれだという。
伏木が北前船の拠点だとか、かつて大伴家持が幾多の歌を詠んだ越中国府の跡地だということは、このブログ上での交流を通じて初めて知って興味を持った土地だったのだ。
 
これも何かのご縁というか、「いい加減にちゃんと読め!」ということなのでしょうか?
たとえそれが思い込みだろうと妄想だろうと、こうなったら現時点での理解度で読むしかないんじゃないか、という気がしてきました。
 
震災後のいま、「方丈記私記」を読んでいます。