銕仙会 二月定期公演

能「弱法師」
 シテ :片山九郎右衛門
 ワキ :宝生欣哉
 アイ :高野和憲 
 笛  :一噌隆之
 小鼓 :観世新九郎
 大鼓 :國川純
 地頭 :浅見文義
 後見 :野村四郎  浅見慈一
 
狂言「寝音曲」
 シテ :野村万作
 アド :石田幸雄
 
能「百万」
 シテ :柴田稔
 子方 :谷本悠太朗
 ワキ :野口敦弘
 アイ :深田博治
 笛  :内潟慶三
 小鼓 :森澤勇司
 大鼓 :小寺佐七
 地頭 :観世銕之丞
 後見 :山本順之  清水寛二
 
(※2月10日(金) 宝生能楽堂
 
 
なんとまあ、これが年が明けて初の観能記事とは。。
 
今月の銕仙会は、「弱法師」「百万」と、いずれも離れ離れになった親子が寺で再会するという曲。「よっしゃ、2月はこれでいこう!」とか企画会議で決めたのかな?
そもそも日本人は離れ離れになった親子、夫婦、恋人たちが、何かの導きで再び巡り会うというパターンの話が好きなのかもしれない。能にも「芦刈」「桜川」「三井寺」「船橋」「高野物狂」とか・・・もっとあったような気がします。
ただし「弱法師」と「百万」は、パターンは一見同じでも深く考えると親子の関係も結末も180度違うと思うけどね。
 
 
「弱法師」
 パンフレットによると今回の面は古元休作の「弱法師」だそうで、おととし浅見真州のシテで使われていた面よりは大人びて苦悶の色も少なく、瞑目する青年のような面差しでした。黒頭も真州のサラサラストレートに対して九郎右衛門は茫々頭。
 この日の九郎右衛門は体調不良だったのか、謡い出しの声がいつになくしゃがれて弱々しく、シテ柱から舞台に入ってすぐにまさかの絶句。すかさず野村四郎(後見)の声が飛び、すぐに態勢を立て直したものの前半は生彩に欠けた。
 それでも天王寺の日没に西方浄土をなぞらえ、見馴れた難波の海の景色を見えぬ目に浮かべて舞うくだりでは、ちょっと持ち直して九郎右衛門らしいたおやかでゆったりとした型を見ることができた。
目に見えぬ自分にも、この世のものならぬ美しい景色が見えるのだと謡う俊徳丸。それは、おそらく彼が光を失う前に最後に目にした景色かもしれないし、記憶の中で美化されていったであろう(過去の)景色に救済を観ようとする哀れさが胸を衝く。
すこし離れた人ごみの中から、その姿を悲しげに見つめる欣哉(父)。
 息子に気がついた父が俊徳丸に名乗り出るのが、人気の絶えた夜更けというのも、俊徳丸の行く末が決して明るくないのを暗示しているかのようだ。恥じ入って逃げようとするものの欣哉に手を取られる九郎右衛門は、わりとおとなしめの俊徳丸というか(風邪?がつらかったのか)、もう無抵抗に高安の里に戻っていくのでした。。
 
 しんとく丸は許嫁の愛と観世音の功徳で、この世でもっとも救いのない盲目のらい病から再び光を得て戻ってくるけれど、能の俊徳丸は最初から最後まで光を失ったままだ。冒頭で「出入の月をみざれば明け暮れの 夜の境をえぞ知らぬ」と現れて、天王寺で救済を求めた結果、父と再会して高安に帰るのも「夜もまぎれに明けぬ前に」と、未明の暗闇のなかである。彼の世界は昼と夜の境もない暗闇のままで、里に戻ってもそれは変わらないのだと暗示しているようだ。「歌占」「隅田川」も安易な救済を結末に求めず、揚幕の奥に演者が消えた後も物語が続いているような気にさせられる作風の元雅、もっと長生きしてほしかったな~と思う やまねこでした。
 
 
「百万」
 やまねこも百万の舞台になった嵯峨野の清凉寺に行ったことがあるけど、境内には壬生狂言の舞台もあって、とにかく広大なお寺です。こういう曲を観ると、当時のお寺という「場」の役割というか、庶民の生活との関わりがうかがわれて興味深い。
 アイの深田博治が女物狂を呼び寄せるためにわざとヘタクソな念仏を唱え、はたして現れた百万が「あ~、もう聞いてらんないわ!」って感じで後ろから笹でばしっ!と引っぱたくのに「蜂が刺いたあ~(泣)」という場面も、きっと境内の群集がどっと湧いただろうなとか、当時の賑やかだったであろう見所の雰囲気を感じさせます。
 
 シテは狂い笹を手に橋掛かりに現れたときから既に清凉寺にいるかのような気合と集中力。やまねこ、この方のシテ舞台は初見ですが、いつも後見座の銕之丞の隣で心配げな顔で舞台を見守っているおじさんが、あんな若々しく涼しげな謡の持ち主だとは思いませんでした(←超失礼)。子への思いに引かれる親の心を車にたとえて、えいさらえいと車を引きつつ念仏を唱える百万。
 子方はまだ本当にちっちゃい子で、やがて百万に気がついて「あ、お坊様、あれはママだよ!」(←こんな感じ ^^)と告げるのだけど、僧も慎重に百万の里を尋ねる。
そのやりとりと百万の舞がすごく長い(そこが見どころなんだけど)ので、そのうち悠太朗くんは足が痛くなってきたのか、おっきな目をうるうるさせながらも必死で眉をきゅっ!と寄せて何度も背筋を立て直します。がんばれ!
 境内の真ん中(?)ではシテがいよいよ高揚して、舞に熱がこもります。集中力と熱がこもった舞を観ながら、何かを一心に思い苦しむとき、じっとしているより体を動かす方が強すぎる思いを身体から解放するとともに、その思いを昇華させるというかより先鋭化させるのかもしれない・・・ということを、ふと考えさせられました。当時、生き別れた子に再会するのはほとんど不可能と同義で、寺という人が集まる場で目立つことで手がかりを得ようと考えた。でも、それもまさに盲亀が浮木にあたるような確率。その絶望を打ち消すように百万は一心に舞っていたのではないか。
 ようやく百万に再会できた悠太朗くん、後ろからワキに支えられて歩き出そうとしてあやうく長袴に足をとられかけながらも、ママのもとまでしっかり歩いていきます!わが子をいとおしそうに抱き寄せる百万。今度は本当のハッピーエンドで、都(揚幕の向こう)へ一目散に帰っていく悠太朗くんと、喜びの舞を舞って(?)その後に続く百万でした。
 
 
「寝音曲」
「酒を飲んで女の膝枕で横にならなきゃ謡えない」という太郎冠者に酒を飲ませ、だったらオレの膝を貸してやる!という主人と太郎冠者の攻防戦。万作に膝枕を貸してやったものの、「なんか気持ち悪い」という石田幸雄に満場大爆笑。
こういう狂言は、軽妙な万作とやはり石田幸雄のニコリともしない主人のコンビが光る感じ。先月、国立で万作(太郎冠者)&萬斎(主人)で「隠狸」を観たばかりだけど、石田幸雄のアドの方がバランス感覚に優れているというか、太郎冠者のキャラクターと主従の緊張関係まですっきりと描き出せているように思う。アドの役割に気づかされるのは、こういう名人の舞台を観たときだ。
 
 
週末の解放気分もあって、家に帰ってそのままバタンキューの やまねこでした。