春の雪は袖に落つ

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 二月最後の昨日、東京は真冬に逆戻りしたように一日中雪が降り続いた。
朝、部屋を一歩出たとたんに、牡丹雪がコートの袖にはらはらと降りかかり、
先日観たばかりの「弱法師」の、梅花を折って頭に挿しはさまざれども 二月の雪は袖に落つ あら面白の花の匂ひやな …というくだりを思い出した。
 
 「弱法師」は、一昨年9月に観た浅見真州のシテがつよく心に残っている。
あの晩、半屋外の代々木能舞台の橋掛かりに弱法師が現れた瞬間、見所の照明が落とされて、舞台の古びた蛍光灯だけが、梅の香りを味わうかのように見えぬ梅花を仰いだその面を早春の冷たい月の光のように照らしだした、あの凄絶なまでに妖艶で孤独な姿が忘れられない。放浪の果てに栄養失調で光を失った美しい少年が、日々の糧を得るために生きながら堕ちた地獄。夜更けに人目を避けて父が名乗り出てきたとき、彼は浄土の救いなどどこにもないことを痛感したことだろう。それでも自分を棄てた父についていくのだ、来世での救済が見えない以上は 結局この世で生きていくしかないのだから・・・と。
 
 半屋外での演能という制約上、本来は早春の曲を秋に持ってきたのだろうけど、曲に対する知識以上に、実際に肌で舞台の空気に触れるという体験が強烈だったのか、最近まで梅花のくだりを聞いても季節感がいまいち実感できなかった。
 それが一昨日の晩、雪が降る直前の帰り道に、生垣から白梅がのぞいているのを見て、弱法師が梅の花(早春の雪)を袖に受けている映像が、もう理屈抜きでビリビリッと受信できたのだった。春に向かう夜半の底冷えのする寒さは、襤褸をまとった俊徳丸の骨の髄まで染み渡ったことだろう。天王寺に集まる乞食や身障者の中には、雪に濡れて凍死した者もいたはず。そうした極限状態の中で、彼は命を奪う雪を、春に向かう梅の花に見立てていたのではないか。。
 能では垣の梅が弱法師の袖に降りかかる様子を雪にたとえているけれど、その美しい場面の花を雪に反転させたとき見えてくるのは、弱法師が日々直面していたであろう死と隣り合わせの残酷な現実そのものだ。
「能は想像力の芸術」とは、塩津哲生・辰巳満次郎両氏がおっしゃっていたけど、その想像力も体感や知識のストックがなければ広がらないのだな~と実感した出来事だった。写真の梅(切り花)をお部屋に活けたときも、梅の花が思いのほか強く澄んだ香りなのに初めて気がつき、目の見えない人にも梅が咲いているのがすぐわかっただろうと納得できたし。。
 能の解説本なんかだと、その場面を「梅の香りを愛おしむ弱法師の穢れのない心」とか書いてあるけど、中世人だった元雅はそんなピュアな解釈しちゃあいないでしょ!「花」と「雪」といえば、この上なく美しいものの代名詞だけど、ほんの少し、視点をずらした瞬間、その奥に別のものが見えてくる。元雅はすごいリアリストだ。
今の私には、安易な救済などより、現実を直視し、受け入れて共存していけるだけの強さが欲しい。
 
・・・・・・・・・。
 
ま、梅を見るたびに、いちいちそんなこと考えてもいられないけどね~。