謡音読会 第十五回「白楽天」

イメージ 1
尾形光琳「白楽天図屏風」
 
 
一年ほど前、小早川修さんが謡音読会を始めるということを能楽堂のチラシで知って、やっぱり!というか、小早川さんらしいな~と思いました。といってもご本人とは言葉を交わしたこともないけれど。舞台を何度も拝見していて直感的に「ことば」に対する意識の非常に高い表現者ではないかという気がしていたのです。
にもかかわらず、私の休日出勤がことごとく重なってしまい、実際に参加できたのは年末の「野宮」だけ。。(涙) 今回はようやく2回目の参加です。
 
<あらすじ>
中国の詩人・白楽天は日本の知力を試せという勅令を受け、松浦潟までやってきた。そこで小舟に乗って釣りをしている漁翁と漁夫に出会う。すると漁翁は楽天の名前・渡来の目的を当て、楽天が目の前の景色を見ながら詩を作ると、直ちに和歌に翻訳する。老漁は日本では蛙や鶯までもが歌を詠むのだといい、舞楽の遊びをして見せようと言うと消えていった。
老漁は、住吉明神の仮の姿であり、やがて気高い老体の神姿で現れ、舞を見せた後に多くの日本の神々と共に神風を起こし、楽天を中国へと吹き戻すのだった。
 
やまねこ、上記のあらすじを初めて知った時「なんか政治的な意図で作られた『大和文化讃歌』なんだろうか」と思っていたのですが、音読会に参加して詞章を読み進めていくうちに、その解釈がいかにアサハカだったかと気づかされましたね。
 
音読会は、謡本(プリント)を場面ごとに10~14箇所に区切って読み進めていくもので、最初からいきなり小早川さんに合わせて一斉に謡本を音読するのに、ちょっとびっくり。その後、現代語訳と簡単な解釈がついて、もう一度音読。というプロセスを場面ごとに進めていくという、文字通り「謡を音読」していきます。
非常にシンプルな方法ですが、このプロセスで、耳の上を滑っていくだけだった詞章のことばが「身につく」感覚が実感できるのですね。やまねこは鑑賞用に観世流のミニ謡本を集めているけど、やはり自己流で区切って読んでしまっていたので、「あ、ここはこう区切るんだ。謡って意味だけじゃなくて拍子ベースなんだ」ということに気づかされたり(←まあ、お稽古してる方にとっては当たり前のことなんでしょうけど)。
なにしろどんどん先に進むので、意味をクダクダ考えるより先に、体を使って「ことば」と「音」に向き合うことになる。
 
教材のプリントも読みやすく、知識偏重にならない程度に、背景となる出典も引用してあって面白い。白楽天は「枕草子」に出てくるように、平安以降、上中流階級の教養には欠かせない詩人で、能への登場頻度もすごく高いのですね。「経正」「紅葉狩」「三井寺」「芭蕉」「俊成忠度」などなど。
ではなぜ、その白楽天が勅命を帯びて日本に渡航し、住吉明神によって神風で追い払われるのか?
この曲が作られた当時の日本は、災害が多発したり元寇の襲来があったりして、かなり危機的な状況だったそうなのです。そう、まるで今の日本みたいに・・・。そうした背景を考えると、日本人にとっての教養の神様的存在の白楽天が、日本支配をもくろむ唐の勅使として送り込まれてくるというのは、当時の日本人にとってはかなりリアルな脅威のイメージなのでしょう。それを和歌の神様でもある住吉明神が、唐に勝るとも劣らない日本の文化と精神性の高さを誇り、日本の国土に一歩たりとも上陸を許すことなく神風で追い返すというのです。
しかも、キリはほんとスペクタクルというか、松浦潟の海上に「伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島~」と全国各地の神様&八大竜王が勢ぞろいして海青楽を舞って神風を起こすという、念の入れよう。
 
八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に翔りつつ。
舞い遊ぶ小忌衣(おみごろも)の。手風神風に。吹きもどされて。
唐船は。此処より。漢土に帰りけり。
げにありがたや。神と君。げにありがたや。
神と君が代の動かぬ国ぞ久しき。動かぬ国ぞ久しき。
 
こうしてひと通り読み進めていくと、なんだか当時の人たちがなすすべもなく不安と恐怖と悲しみに翻弄される中で、希望を見出そうとしていた姿が浮かびます。
去年の震災の直後も、日本人のマナーの良さというか慎ましさが海外のメデイアで話題になり、国内でも「日本はまだまだ捨てたもんじゃないぞ」的な報道が相次いだのを思い出します。やはり、非常時によりどころとなるのは自国(ひいては自分自身への)誇りなのでしょうか。
 
この日(3月11日)に、白楽天を取り上げた事自体は偶然かもしれないけれど、いつも音読会の最後にキリを謡うことになっているのに、今回は「追加」がつきました。
能では、故人の追善供養の公演の最後に、附祝言の替わりに故人をしのぶ「追加」で謡納めになり、「融」のキリなどが謡われるのだそうです。
 
この光陰に誘はれて 月の都に入り給ふよそほひ
 あら名残惜しの面影や 名残惜しの面影 
 
体言止めでふっ、と消えるような終わり方が、かえって心に残りますね。
 
そして、覚和歌子さんの「ほしぞらとてのひらと」という歌のCDを流してお仕舞となったのですが、最後の最後に小早川さん、「この詩でお能ができるかもしれませんねと言われました」と気になるひとこと。
ふふ、「草の祈り」に続く新しい作品の構想かしら。福原徹さんも参加されるのかな。。小早川さん、やまねこも首を長~~くしてお待ちしておりますね♪
 
 
☆謡音読会