第三十回「二人の会」

舞囃子「枕慈童」
 香川 清嗣
 
狂言「大黒連歌
 シテ   山本 東次郎
 アド   山本 㤗太郎  山本 則孝
 笛    一噌 仙幸
 大鼓  柿原 弘和
 小鼓  飯田 清一
 太鼓  観世 元伯
 
能「小原御幸」
 シテ(建礼門院) 塩津 哲生
 ツレ(阿波内侍) 内田 成信  (大納言局)佐々木 多門
 ツレ(後白河法皇) 友枝 昭世
 ワキ(萬里小路中納言) 森 常好
 ワキツレ(延臣)  森 常太郎
 ワキツレ(輿)  舘田 善博  則久 英志
 笛    一噌 仙幸
 大鼓  柿原 崇志
 小鼓  飯田 清一
 後見  中村 邦生  友枝 真也
 地頭  香川 清嗣
 
(※12月23日(祝) 十四世喜多六平太記念能楽堂
 
 
 今回で最終公演となる香川清嗣と塩津哲生の「二人の会」、行ってまいりました。
塩津さんは今年は「塩津哲生の会」にも区切りをつけられ、来年からご子息・圭介さんと「清能会」を立ち上げられるとのこと。昔とは舞台事情も演者側のライフサイクルも変わり、どこで「区切り」をつけるのか難しい時代にあって、重鎮お二人の「区切り」という言葉が強い印象を残しました。
 2009年の「二人の会」で、塩津さん舞い納めの「道成寺」に静かな衝撃を受けた記憶がまだ鮮やかなだけに残念ですが、それ以上に個人的には、毎年新潟の能楽講座を何より楽しみにしてきた母が、最後の「塩津哲生の会」「二人の会」を観ることができて本当によかったと思っています。
 見所は補助席も出て、小さな能楽堂は立錐の余地もない満席状態。
 
 
「小原御幸」
 この曲、観世流の「大原御幸」として二回観ていますが、観世流では女院の隠棲する寂光院の作り物にシテ&ツレ×2の計3人が入っているのに対して、喜多流では作り物に入っているのはシテ一人だけ。
 
 花帽子に渋い色合いの唐織着流し姿のツレ(阿波内侍・大納言局)が控える横で、深い草色の引き回しが静かに降ろされて姿を現した女院は、純白の花帽子に白絹の着流し姿で、全身白づくめの姿が周囲とは明らかに別の世界の人のような違和感を覚える。考えてみれば、壇ノ浦で生きながら地獄を体験し死の縁から引き戻された女院は、すでに一度「死んだ」身なのだった。「歌占」のシテが臨死体験で若くして白髪になったことを思い出す。
 作り物から立ち上がったシテは頭が細かく震えていて、そのうち全身が震えてきそうなのを必死で抑えている感じで、それでも先帝の仏前にお供えする樒を裏山に摘みに行きましょうと寂光院を出る。それだけが、彼女の日々の生きる支えであるかのように。まるで後見のように常に女院から視線を外さず つかず離れずの距離で付き従う若いツレ(大納言局)は、銀鼠色の渋い装束ながら、品の良さとこまやかさが、いかにも忠実な上臈女房といった趣。
 
 そこへ、女院へのお見舞いと称して後白河法皇の一行がガヤガヤとやってくる。この場面でのワキの謡、晩春の陽光と荒れ果てた寂光院コントラストを描くにしては、いやに朗々と情感たっぷりに謡い過ぎなような。。(いくら美声でもアリアぢゃないんだからさ~)その場違い感が、女院の静かな生活に土足で踏み入る後白河院一行の様子を描写していると見えなくもないけど(?)、そこを狙ったのかしらん。
 後白河法皇到着から女院との対面までが、結構長く感じられたのだけど、その分、ツレの女官二人が控えめながらも闖入者(後白河法皇)から女院をお守りしている様子がわかりやすかったかも。
 
 山から下りた女院は小豆色の僧衣をまとって、後白河法皇と対面。
 近藤乾之助の「上品さの中の凄み」とは違うけど、友枝昭世後白河法皇も仇敵の娘にして嫁である女院への残酷な好奇心を、これ以上ない間のよさ(?)で投げかける。弱者である女院は小さな体を震わせながら、それでも抗わず一族の最期の様子を地獄の様として淡々と語り出す。この日はうっかり謡本を忘れたけど、喜多の謡は聴き取りやすいから、一族の男たちの壮絶な最期と残した言葉、そして最期の時がだんだん女院の乗る舟に近づいてくる様子が伝わってくる。
 そして。
 後白河法皇の「それで、先帝の最期のご様子は」という言葉が女院を射抜く。
本当に凄かったのがここからで、それまでずっと震えていたシテは声量もテンションも特に上げることもなく、二位尼が幼帝の手を取って舷に臨む様子を淡々と語る。
 
「いづくへ行くぞと勅諚ありしに」
「此の国と申すに逆臣多く、かくあさましき処なり。極楽世界と申して、めでたき所の此波の下にさむらふなれば、御幸なし奉らんと、泣く泣く奏し給へば」
「さては心得たりとて。東に向はせ給ひて、天照大神に御暇申させ給ひて」
 
 幼い帝の無垢な愛らしさ、子供心に異様な雰囲気を察して発した言葉、孫に恐怖を感じさせまいと優しさと無念さをこめて語りかける二位尼の静かな口調、そして目の前でわが子と母が海に消えていくのを呆然と見ているしかなかった女院の絶望が、阿鼻叫喚の中に浮かび上がるような謡。本当に、すぐ目の前に幼い帝と二位尼の姿が見えた気がした。
シテの謡の力の凄さ、舞台への執念を目の当たりにした瞬間だった。
 
 「見るべきものは見つ」と言って死んだのは知盛だったけれど、建礼門院こそその言葉がふさわしい人はいなかったのではないか。一説によると、女院が亡くなったのは1223年。壇ノ浦で一度死の淵から引き戻された彼女は、平家滅亡後、源氏一族の血で血を洗う抗争の果てに成立した鎌倉幕府も1219年の実朝暗殺による源家嫡流が断絶するのをも見届けたことになるのだから。
 そう思って見ていたせいか、後白河法皇を見送る女院の小さな後ろ姿、そして法皇の華やかな輿が消えていく幕の向こうの暗がりに、平家物語冒頭の「祇園精舎の鐘の音・・・」が浮かぶのでした・・・。