国立能楽堂 3月定例公演

狂言「腹不立(はらたてず)」
 シテ  善竹 十郎
 アド  大蔵 吉次郎
 アド  大蔵 千太郎
 
能「善知鳥」
 シテ  浅見 真州
 ツレ  谷本 健吾
 子方  谷本 悠太朗
 ワキ  宝生 閑
 アイ  大蔵 基本誠
 笛   一噌 庸二
 小鼓  林 吉兵衛
 大鼓  亀井 忠雄
 後見  武田 志房  副後見  清水 寛二
 地頭  浅井 文義
 
(※3月15日(金) 国立能楽堂
 
 
 この記事を更新する前に、浅見真州の芸術院賞受賞のニュースが。
やっぱりというか当然というか、むしろもっと早くてもと思ったくらいでしたが、浅見真州の舞台を知ったことで深みにはまった(笑) やまねこも、今回の受賞は本当にうれしく思います。
・・・でも、チケット取りづらくなるだろうなあ~争奪戦は昭世だけで充分ぢゃ。。
 
 
「腹不立」
 やまねこの好きな十郎さん
この方の狂言には、ふわっとした可笑しみ・温かみがあって、台詞回しを聞いているだけで自然に笑いがこみあげてくる。
「腹立てずの正直坊」と名乗った手前、さんざんからかわれても必死に怒りをこらえた挙句、それでも意地張ってあの独特の枯れたダミ声で「ええい、業が煮ゆる~」というキレっぷりが、ナイスです。
 
 
「善知鳥」
 殺生を生業とする漁(猟)師が地獄に堕ちる、いわゆる「三卑賤」と呼ばれる曲の中でも最も救いがないのが「善知鳥」。以前、今井泰行(宝生)、野村四郎(観世)で観ているのですが、浅見真州のシテなら絶対見逃せないと思っていました。
 舞台は、前場が三霊山として有名な富山県立山後場が猟師が生前暮らしていた「外の浜」(青森県津軽半島陸奥湾)と、この世とあの世の「境界」である場所。
やまねこは舞台の「境界」たる橋掛かりに近い、脇正面席をゲット。過去の観能では前正面から観ていたので、今回はあえて脇正面から観たかった。
 
 囃子方地謡も着座して空気が静まりかえり、橋掛かりの奥の空気がじわじわっと凝縮していくのが左半身に伝わってくる。やがて、お幕が音もなく上がって、立山での修行を終えて麓に向かう僧・閑さんが静かに現れる。久しぶりの閑さんは少しお痩せになって真っ白なお顔。謡い出しも、心なしかそろそろと辿るような足どりで険しい山道を下っていくようだ。
 その背中を、地の底から硫黄が湧き出すような不気味な声が呼び止める。もう明らかに死者の声だとわかるような異様な雰囲気で、閑さんもそれをわかってふり向いたような。お幕が黄泉の入口のようにぽっかりと開いて、奥からシテが歩み出たとき、橋掛かりに異界が立ち現れたような感覚を覚えた。外の浜に残した妻子への言伝を、動じることもなく受け入れる僧。証拠がなくてはと亡霊が破いた片袖を受け取るとき、閑さんはいつものようにシテの目をじっと見て(いるように見える)、安心しなさいと言うように、粗末な片袖と死者の思いを大切に預かる。この場面、ワキの「器」の大きさが要諦ではないかと思う。山を下ってツレと子方のいる表舞台に向かう僧の背中を、一の松あたりに立ち尽くしていつまでもじーーっと見送る亡霊。
 橋掛かりからのシテの斜めの目線が、シテの位置とワキの位置に物理的な高低差すらあるような錯覚を起こさせる・・・というのは、脇正面(シテの背中越し)で鑑賞しての新たな発見ですな(ふふっ)。舞台の空間処理の巧みさがわかりやすい。
 
 一家の主を亡くしたツレ(妻)と子は、本物の親子ということもあってか、去年「百万」で涙目で頑張ってた悠太朗くんも今日は安心感があったみたい。可愛い~
 そこへ、中有をさまよっていた亡霊が懐かしさを抑えられず姿を現す・・・のですが、そこが真州流なのか、縒水衣に暗い色合いの厚板、までは決まりの装束なのだけど腰蓑が雉の羽根を二段に重ねづけしたもの。生前にウトウを獲っていた猟師は殺生の報いで地獄で雉になって、生前自分が殺した鳥や獣たちに襲われる、というくだりの具象化でもあるようだし、実際にも雉の羽を防寒用に身につけていたんでしょうね。セミヌードの「海士」にも通じる、浅見真州らしい大胆な解釈にびっくり。(これは賛否両論あるんじゃないかと思うけど)
 
 自分がとうに死んでいるのも忘れたかのように、猟師の亡霊は駆け寄って我が子を抱きしめようとするのだけど、子方はほとんど本能的に飛びすさる。雲に隔てられて子供が見えなくなる・・・というのは、もう生者と死者の間のどうしようもない隔たり(死者への本能的な恐れ)なのかもしれない。生前、親鳥の鳴き真似をして善知鳥(ウトウ)のヒナを獲っていた報いで、もう我が子にふれることができないのだ。
 地謡(この日は平均年齢が割と若めのメンバーだった)は気合が入っていて、猟師を生業とする階層に生まれたがために、明けても暮れても猟(殺生)を営む貧しい暮らしから逃れられなかったシテの宿命を、筆圧強めの謡(?)で謡い上げる。飛べないばかりに外敵から逃れられない善知鳥も猟師も、生まれた場所から逃れられないという点で同じ宿命を担っていたのだというように。善知鳥こそ猟師の姿、なのだ。
 
 カケリに入ってシテはだんだん異様な熱を帯びてきて、階の前に置かれた笠(善知鳥のヒナに見立てている)に駆け寄って杖でグサグサと刺し(打ち)、親鳥の血の涙を避けようと笠(今度は文字通りの笠)を斜めにさしかけて逃げ回る。シテは明らかに「殺す」行為自体の愉悦を味わっていて、血の匂いが立ち込めるような陰惨さ。
空気を切り裂くような大鼓が、シテの狂乱(というか高揚)を掻き立てるようだ。
 
 「殺す愉悦」という、人間が本能レベルで持っているゆえに、ふだんは理性で目を背けているものに、ここまで迫った「善知鳥」を観たのは初めてだ。
 
 幼鳥を騙して殺す快感を狩っていたから地獄に落ちた。今度は自分が追われる側になり、親鳥に引き裂かれる苦痛をエンドレスに味わうことこそが罪の報い。シテは一人二役で化鳥になって襲いかかる善知鳥と、苦悶の叫びをあげる猟師を演じて、お坊様助けてください助けて・・・と断末魔の叫びと黒煙を残して消えていく。陰惨な迫力にもう声もなかった。
 
 銕仙会の講座やNHK教育でみる浅見真州は、インタビューに対して簡潔な言葉で穏やかにコメントしていて、頭のいい方だな~と感心させられるのだけど(超上から目線。。すみません)、演者は舞台の上でこそ語るものなんだな~と思いました。
今年もがんばって通います!