ソフィ・カル「最後のとき/最初のとき」(原美術館)

イメージ 1
 
 
 昨日、仕事の帰りに品川の原美術館へ、フランスの女性現代美術作家ソフィ・カル「最後のとき/最初のとき」に行ってきました。
 ソフィ・カルは写真と言葉をつないだ物語性の高い作品で知られており、原美術館では1999年「局限性激痛」以来14年ぶりの展示となります。
 当時、まだ現代アートに興味がなかった やまねこは、原美にこそ行っていませんが、青山ブックセンターで偶然手にとった「本当の話」(平凡社・1999年刊)でソフィ・カルを知り、その後21美のコレクション展でヴェネツィア組曲の一部を観、個展があったらぜひ行ってみたいなあ~と思っていました。展示数こそ多くはないものの、はたして期待にたがわぬ密度の高い内容で、痛みをともなう静謐さに満ちた、「見る」とはどういうことなのか考えさせられる展示でした。
 
 コンパクトな原美の空間を活かした展示構成で、一階には「海を見る」を、二階では「最後に見たもの」とはっきり分けて展示しています。今回展示されている作品はすべて、イスタンブールで制作されたそうです。
 
 
イメージ 2
「海を見る」(2011年)
 
 
 見ているだけで吸い込まれてしまいそうな、深く、青い海。
 「海を見る」で、ソフィは、生まれてから一度も海を見たことがないというイスタンブールの人たちを海に連れ出し、彼らが初めて海を見たときの様子を撮影します。
 
 「水に囲まれたイスタンブールの街で、まだ一度も海を見たことがないという人々と出会った。私は彼らの最初のときを撮影した」
-ソフィ・カル「海を見る
 
 テレビやネットが普及した現代において、一度も海を見たことがない人たちとは、実は海を見るだけの余裕も手段も情報も持たない貧困層の人たちなのです。
 展示室にはプロジェクターで投影した複数の作品を、時間差をもうけて、生まれて初めて海を見た人々の様子を私たちの目の前で展開していきます。涙を浮かべる人、困惑したような表情の人、ただひたすら後ろ姿だけの人・・・展示室には波の音だけが響いています。そのうち、彼らがただ海を「見て」いるだけではなくて、潮風に身をまかせ、潮騒に耳を傾け、全身を初めて遭遇した海の前にさらしていることに気がつきます。その存在も観念すら知らなかった、未知のものに初めてふれたときの感覚を、イスタンブールのひとたちの姿を介して疑似体験しているような。
 
 二階に上がると、「見る」という感覚は痛みすらともなって迫ってきます。
 「最後のとき」は、病気や事故で視力を失った人たちの現在の姿と、彼らから目が見えた頃最後に見たもの記憶やイメージをインタビューし、そのイメージに近いものをソフィ・カルが撮影した写真とテクストをセットで展示した作品が13点、展示されています。展示されているテクストはフランス語のため、鑑賞者にはあらかじめ日本語訳のプリントが配られています。
 
 
イメージ 3
 
 
 「私はイスタンブールへ行った。私は盲人の人々に出会った。多くは突然視力を失ってしまった人だった。私は彼らが最後に見たものを説明してくれるように頼んだ」
-ソフィ・カル「最後に見たもの」
 
 8歳のときに脳腫瘍の手術で失明した女性は、手術台に抱き上げてくれた若いドクターが自分を上からのぞき込んだときの表情であったと言い、暴漢に目を撃たれたタクシーの運転手は、リボルバーを持って迫ってきた男の風貌を語る。朝起きてみたら突然視力を失っていたという人もいます。
 
 帰宅途中で事故に見舞われた人は、死の淵に立った瞬間を語ります。
 
 「2006年8月2日。12時半のことでした。私は帰宅途中でした。小さな車を運転していました。大量の大理石を積んだトラックが右から全速力でやってきました。トラックはブレーキをかけ、クラクションを鳴らし、ヘッドライトを光らせながら、私の方へ横滑りしてきました。私は白い塊を見ました。全て大理石で、私を押し潰そうとしていました。最後のイメージとして覚えているのは5つです。右手に白いトラック、前方に別のトラック、左手に立ち塞がるフェンス、バックミラーに映る5,6台の車両、ハンドルの上にある自分の手です。どこにも逃げ場がないと気付きました。」
-「盲目の人とトラック」
 
 愛する人の記憶を失いたくなくて、他のイメージは全て忘れてしまったという人も。
 
 「4年間、夫の顔を愛撫し続けています。もう彼を見ることはできませんが、彼の顔立ちが薄れていくのは嫌です。それは私に残った唯一のイメージなのです。私は全てを忘れてしまいました。子どもたちの顔さえ覚えていません。夫はヘーゼルナッツ色の目をしていました。眉は繋がっていて、鼻は少々大きめで、顎に傷があります。あまり目立たないので、どちら側にあったか覚えていません。親切な目をした怒れる男、まさしくトルコ人といった顔つきです。とってもハンサムです。こめかみは白髪になっているそうですが、私の中では今でも茶色い髪をしていて、いつまでも39才の彼のままです。」
-「盲目の人と夫
 
 
イメージ 4
 
 
 「最後に見たもの」の中には、実は1点だけ、生まれつき目が見えない人の作品が入っています。「あなたが最後に見たもののイメージを説明してください」という、残酷とも不条理ともいえる問いかけに対して、彼が「見た」ものは、Tシャツとジーンズを着て海辺で黒いオープンカーを走らせている自分の姿だと答えているのに驚かされます。「見る」ということは、単なる視覚の現象ではないのではないか?とも考えさせられました。
 
 
イメージ 5
 
 
 ソフィ・カルはその作品の独自性の強さから、最初はなかなかアートとして認められなかったそうです。探偵を雇って自分を尾行させて、写真つき報告書を作成させる。あるいは、街で拾った手帳の住所録を使い、そこに載っている人々に話を聞いて、手帳の持ち主の人物像を浮かび上がらせる。ちょっとアブナイ、常軌を逸したような創作活動のために、件の手帳の持ち主から訴えられたこともあるそうです(←当ったり前ですが)。
 しかしその作品は、客観的なはずの第三者(たとえば探偵の報告書)と彼女が自身の行動を記述したテクストとのずれ、そのずれから二重化された「一日の行動」の虚構が浮かび上がってくる――その過程を写真という「客観的なはずのツール」と言葉で、絶対性・客観性を揺らがせるところに、彼女の作品の魅力があると思います。
 実はやまねこが国文科のゼミでさんざん取り上げたのも、絶対性の存在しないテクストのずれや隙間を解読していくという作業だったので、ソフィ・カルの作品の持つあやうさにすごく惹かれます。ちょっとヤバイ??
 
イメージ 6
 
 
 原美のミュージアムショップで買った、「局限性激痛」の図録(?)。
奨学金を得て日本に留学した日々、出発前の愛する男との別離、家族への手紙とともに展開される、彼女の心の「痛み」が写真とテクストでつづられた作品集です。
全文フランス語ですが、日本語訳もついているので買ってみました。現代アートってそもそも認知度というかパイが少ないせいか、和訳がついていない書籍がほとんどなんですよね。この本もコンパクトな割には結構なお値段がしました
 
 今回の展示と連動して、群馬県渋川の分館「ハラ ミュージアム アーク」で、原美所蔵の「局限性激痛」も展示されているとのこと。う~~ん、最寄駅が高崎かあ・・・いつも上越新幹線で通過する駅だけど、ちと遠いかも。。でも行ってみたい。。。