謡音読会 -声に出して読む謡曲「檜垣」-

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 月に一度国立能楽堂研修室で行われている、観世流能楽師・小早川修さん主催の謡音読会に今月も行ってきました。
 音読会とは、能の謡を普通の言葉として(節をつけずに)声に出して読む会で、
①声に出して謡を読む ②現代語訳を聞く ③役に分かれて読む ④一節を謡で聞く・・・という内容。
 いわば月イチの朝活なのですが、なかなか興味深い内容なので、自分の備忘録を兼ねて書いてみます。読書術だって、アウトプットを前提にした方が知識が身につく
といいますからね~。
 
 
 さて、昨日(12月22日)に読んだのは世阿弥「桧垣」。
「桧垣」は能の世界では最も位の高い老女物のひとつ。老女物は、毎週末能楽堂をハシゴして前評判の高いチケットは絶対逃さない!なんて方はともかく、月に一二回能を観る程度では本来はなかなかお目にかかれない曲で、やまねこは何年か前に宝生流の素謡(シテ:近藤乾之助/ワキ:宝生閑)で「桧垣」を聴いたことがあるくらいです。
 肥後国岩戸で修行をする僧の前に老女が現れ、後撰集に「年ふれば我が黒髪も白河のみづはくむまで老いにけるかな」と歌ったのは自分であり、白拍子として美しさを誇った生前の罪によって死後も苦しむ我が身を語る。僧の弔いを受け老女の霊は華やかかりし昔日の舞を舞って姿を消すという筋立てです。
 
 最初に作品の舞台となった場所を紹介。(ああ熊本って水道水が阿蘇の天然水でそのまま飲めるんだよね~水を汲んだ白拍子の流れ着いた先としていいのかも)などと勝手にイメージしたところで音読に入るのですが、最初は意味なんていちいち考えずにひたすら声に出して読んでまっす。(すくなくとも、やまねこはそう)
 内容的に区切ったところで、講師の小早川先生が現代語訳を音読するのですが、これがそのまま朗読劇になりそうな音読で、作品や登場人物によって(当てぶりにならない程度の絶妙さで)読み分けられているのです。(←やまねこ、実はこれがお目当てだったりする。。)
 現代語訳の合間に「桧垣」のキーワード「みづはくむ」の解説が挟まれたりします。
能の謡では「掛詞」(日本語の同音異義語の機能を活かして、一つの言葉に二つ以上の異なる意味を掛け合わせた暗喩的な表現法)が、舞台の進行につれてどんどん展開していくので、これをスルーしちゃうともうワケわかんなくなります。
 たとえば、「桧垣」の「みづはくむ」は直接的には「水は汲む」なんだけど、老いて背や腰が曲がって「三つ輪組む」ような姿になった老女、老いて歯が抜けて第三の新たな歯が生える「三つ歯くむ」(若返る?)という意味もこめられているのだそう。
 また、クセの乱拍子「釣瓶の懸縄。繰り返し憂き古の」では、色彩豊かなイメージを喚起する言葉(「紅花の春の朝」「緑に見えし黒髪」など)がちりばめられています、という指摘に注意して読むと、クセの、桧垣の女のかつての華やかな姿と現在の落魄の姿を対比する言葉が効果的に配置されていることに気がつくといった具合。
 全体を読み返してみると、「桧垣」は主題が非常に明確で、しっかりした構成のもと「因果の水を汲む女」の姿を浮かび上がらせる詞章が効果的に使われている曲なのだと気づかされます。
(ああ、あのときの乾之助さんと閑さんの素謡、いまもう一度聴けたらなあ~~。。)
 
 音読自体には「7日間で攻略!」的な即効性があるわけではないのですが、今まで「綺麗だけど何が描かれているのかわからなかった」細密な刺繍とか屏風図の主題がすこしは見えてくるような、小さな気づきを得られているような気がします。
 
 やまねこは時間の許す限り、能楽関係の美術展だの観世宗家のアーカイブズだの銕仙会主催の単発の講座に参加しているけど、実際の舞台を観ていて実感するのは、舞台鑑賞を楽しめる度合いは、「謡」の聴き取りと内容理解のそれに比例するということ。
 就業形態や生活スタイルの変化で、見所の客層も「お稽古はしてない(もしくはできない)けど、謡の理解を深めたい」という人が出てきているはずで、「横道萬里雄の能楽講義ノート・謡編(CD付)」なんてそういう人が買っているのかもね。
 一方で、「謡を読む」という取り組みは、おそらく潜在的ニーズはあるけど、実際には非常にニッチで地道な活動で、これを何年もずっと継続されているのはなかなかできることではないと思います。資料だってとても丁寧に作られているし。。
 この会では、わりと上演頻度の高い曲が取り上げられているので、実際に舞台を観るときに活かせるのではないかと、ファイルしてあります。で、後日の番組表とか公演の感想メモなんかも一緒に挟み込んでおこうといういう目論見。わくわく。