謡音読会 第38回「屋島」
大雪で荒れた週末から一夜明けた東京の朝は、眩しいまでの青空。
時季的に「屋島」はこれからよく上演される曲で、観世流で「弓流 那須与一」の小書(特殊演出)がつくと、扇を弓に見立ててシテが取り返そうとする立ち回りがあり、間狂言に「那須与一語」の重い習いがつきます。やまねこは四年前の代々木果迢会で萬斎の「那須与一語」を観たことがありますが、劇中劇といった趣で、萬斎の語り・表現力に映画でも見ているような臨場感を覚えたのが印象に残っています。
今回は(やまねこにとっては初の)修羅能だったのですが、「屋島」は全体的にメリハリのきいた構成で、文言もリズミカルでぐんぐん引っ張る力が感じられ、音読していて楽しかったです。先月の「大原御幸」のような隠喩に富んだ行間を読ませる曲とは対照的に、音読しながら聴覚が視覚的イメージをも誘う曲といった感じ。
また、毎回テクスト全体を音読した後で、役に分かれて音読するのですが、ちょうど景清と三保の谷四郎のしころ引きの場面などで、敵対するそれぞれの側から読む形になったりして、読みながら臨場感が感じられました。
「音読」なので、節付して謡っちゃうことは勿論ないものの、普通の「朗読」とは異なり謡の抑揚をつけて読むので、合戦の場面では自然スピードが上がり読む力も強くなってきます。ひたすら耳を集中しているうちに詞に近づいていく身体感覚は、以前かなり本気で中国語を勉強していた頃に日課にしていたシャドーイング(通訳のトレーニングの基本技法)に似ているかもしれない。
「屋島」は、弓流しの場面で義経が名誉のためなら命をも惜しまぬ誇り高い武士であったという輝かしい「勝者」を語りながらも、その勝者も人間界の勝敗より一層深い次元での規範による「修羅道」からは免れないという価値観が主題になっている。弓流しのくだりの直後に、「また修羅道の鬨の声 矢叫びの声 震動せり」と一転して、カケリで義経を修羅に突き落とす文言「今日の修羅の敵は誰そ」が、その業の深さを実感させて戦慄を誘います。
平和とか人権とか戦争責任なんて概念がない時代に、ひとたび戦ったものは勝者も敗者も等しく修羅なのだ、という思想があったのはすごいことだなあと感心させられますね。