九州への旅 ④長崎港・軍艦島クルーズその4 周遊編

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 正味40分程度の短い上陸見学の後は、再び船に戻って船上から島を2周してのクルーズ。立ち入り禁止区域の廃墟集合住宅ゾーンは、船からしか見られません。
 3つに分けられた見学グループのうち、私は最後に乗船したグループに振り分けられましたが、そこは単独行動の強みで、運よく2階デッキ右舷側の席を確保。
 
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 報国寮に隣接した崖の上に建つ1号棟の屋上には、端島神社(1936年建立)が。
 RC造(一部木造)のこの神社、本殿が倒壊し、周囲のコンクリ―ト建築群が崩壊しつつある中で、細い土台だけで吹きさらしの崖の上にほぼ完全な姿で残っているのが不思議でした。人造の島で唯一神が住まう所なのでしょうか。
 
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 報国寮(右)と56号棟(1939年)を結ぶ連絡通路。
狭い島内では、高層階に渡された通路や階段を伝って移動していたといいます。
 監視が強化される前に上陸した人のサイトには、小中学校の7階部分と報国寮の連絡通路として、コンクリート板を渡しただけの手すりのない「橋」の画像がありましたが、学校によくそんな危険な通路を設けたもんです
 
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 現在、軍艦島クルーズを就航している船会社は5社あって、島内に一か所しかない小さなドルフィン桟橋にそれぞれ1時間/回ずつの持ち時間で接岸しています。
 やまさ海運の船が桟橋を離れると同時に他の会社の船が接岸。この日(3月23日)は三連休の最終日とあって、かなりの人出があったようです。
 
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 いわゆる「軍艦島らしい」ビューポイントにさしかかると、しばらく停泊してくれます。
 写真は炭鉱施設のある島の東側。小さな岩礁でしかなかった軍艦島のもとの大きさは、島中央部の二つの小高い丘の部分だけだったそうです。
 
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(参考:明治40年頃の軍艦島。すでに護岸が建造され人造島の様相に。)
 
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 廃墟の島として有名な西側の集合住宅ゾーン。
軍艦島周辺の海域は波が高いのですが、あくまで炭鉱採掘のためだけに造られたこの島では、比較的波の穏やかな東側に炭鉱施設を建造し、波の高い西側に高層住宅を建造しました。
 こうして見ると、島民の集合住宅群がいわば要塞のような役割をはたしていたのがわかります。それでも、台風の折には護岸にあたって舞い上がる波しぶきは、高さ10mの護岸はおろか、50m近い島の最頂部をも越えて、内海側の炭鉱施設に降り注いだそうです。
 
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コンクリートの要塞。
 
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 画面中央の23号棟跡(1921)は、島内唯一の無宗派の寺院。
木造の寺院は完全に崩落し、その面影もとどめていません。
 
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 寺院跡のズームアップ。手前の瓦礫の中に御本尊の姿が見えると言われましたが・・・う~~ん、見えませんでした。。
 
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 1号棟の手前側、右側より通路で結ばれた鉱員社宅・59~61号棟(1953年)。
 
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 画面左側・外壁に特徴的なデザインがある啓明寮(1940年)。
 59~61号棟に隣接して建てられたこの建物は独身寮として使われていました。
外壁の細いコンクリート柱は、トイレの臭気管。
 
 島全体で崩壊が進んでいますが、集合住宅群は海上からもその度合いがはっきりわかるほど。
 かりに世界遺産登録されたとしても、登録後も維持保存をしていかなければばならないという規定があるのですが、この様子では耐震補強工事程度ではとても無理ではないか(というか工事のしようがないのでは?)と思えてきます。
 そもそも、「九州・山口の近代産業遺産群」の世界遺産推薦って、けっこう土壇場に出てきた話なんですよね。文化庁が完成度の高い「長崎の教会群」を世界遺産に推薦しようとしてた矢先に、日本政府が出してきたのが産業遺産群。その背景には観光地として充分に整備されていない各地のインフラ整備事業を進めたいというねらいがあるというのが、さっすが角栄以来変わらぬ自民党政権の伝統的お家芸
 個人的には、「一生に『一度は』行ってみたい」軍艦島は、イコール世界遺産にふさわしいかというと違う気がするのね。おそらくあと10年もすれば、というか震度4以上の地震が起きれば、この島は消えてしまう気がする。。
 
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 護岸に接して建てられたこのエリアは、波しぶきをもろにかぶっているそうです。
手前側のこれらの建物は比較的新し年代(昭和)に建てられ、波しぶきのダメージを抑えられるよう窓を小さくとったり、ベランダが引っ込んだような設計上の工夫をしているといいますが、その分、写真で見るように日当たりがよくなかったのではないかと思います。
 
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 小中学校に隣接した69号棟・「端島病院」(1958年)。
島民の命を守り育んだ社立の総合病院。戦前は赤痢治療、戦後は炭鉱特有の塵肺(じんぱい)や、炭鉱事故などによる負傷の外科的治療に使われていました。
1階にいくつものレントゲン室があったといいますが、それだけ炭鉱は危険をともなう職場でした。
 よく見ると病院の外壁に緑の塗装がうっすらと残っていますが、人造の「緑なき島」に少しでも緑を、という配慮から塗られたのだそうです。
 
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 危険をともなう仕事なだけに、鉱員は当時のサラリーマンの平均給与の3倍近い給与を得ていました。
 島のほとんどが三菱の所有であったために住宅=社宅で家賃はタダ、水道・風呂・ガス代も合わせて10円(昭和34年当時の全国平均給与は2万9000円)という、きわめて恵まれた生活で、昭和33年時点で島の100%が電化生活を送っていました。
 
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 あっというまにお別れの時間に。。
 
 
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 軍艦島に隣接した中ノ島。
火葬施設のない軍艦島で誰か亡くなると、この島の火葬所で荼毘に付されました。
 
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 だんだん遠くなっていく。。
 
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 さようなら。。
 
  
 全島民退去直前(1974年当時)の軍艦島の姿を収めた動画を見つけました。
 
 こうして廃墟になる前の軍艦島を見ると、軍艦島が人を惹きつけるのは「高度経済成長期から衰退していく日本」を象徴した存在だからじゃないかという気がする。
 
最先端の技術を集約した狭い島、電化の進んだ恵まれた人口過密住宅。
 
そして重点産業の衰退(転換)。島(国)から離れていく技術者たち。
 
 
そういう意味で、軍艦島は、きわめて日本的な場所なのだなあ~と思ったのでした。
 
 
  そうそう、有名な場所だけに下記の資料を参照および一部引用し、できるだけ正確な記述を心がけました。若干の間違いはあるかもしれませんが、日付もちゃんと書いてあるし、悪意はないから不正および捏造じゃないよ(笑)。
 
<参考資料・出典>
・「軍艦島 全景」(オープロジェクト著/三才ブックス)2013年改訂版
・「軍艦島入門」(黒沢永紀著(オープロジェクト)/実業之日本社)2013年
・「軍艦島 -棄てられた島の風景」(雑賀雄二・洲之内徹/新潮社)1986年・絶版
・「軍艦島クルーズ パンフレット」(やまさ海運)
・「九州・山口の近代化産業遺産群世界遺産登録推進協議会HPより関連項目