九州への旅 ③長崎港・軍艦島クルーズその3 上陸篇
(やまさ海運のパンフレットより)
上の地図をご覧いただければわかるように、上陸して実際に見学できるのは廃墟写真で有名な集合住宅エリアとは反対側の、旧炭鉱施設側のみとなっています。
無人化から40年間、まったく補修していない各施設は崩壊が進行していて、動画サイトでも集合住宅の壁面からコンクリート片が落ちる様子が映っているくらいだから無理もないのですが、見学コースから建物までどんなに近くてもゆうに30mは離れているので、正直いって隔靴掻痒の感があります。
安全性の確保も大切ですが、近い将来の世界遺産登録を見据えて、島内を広く見学できるようにしてほしいです・・・(まあ無理だろうけど)。
第一見学広場から第二見学広場へ移動。
見学コースはフェンスで完全に仕切られており、石炭の一かけらすら持ち帰ることはおろか(禁止事項)、島に「直に」足を踏み入れることすらできません。説明員の他に監視員が何人もいて、ちょっとでも群れを離れようものなら速攻で背後をマークされます(笑)。まあ、ちょっと前まで海上タクシーや漁船にお金をつかませて不法侵入する輩が絶えなかった「廃墟の聖地」なだけあって、今も目を離すと何をしでかすかわからない輩がいるということなんでしょうか。
第二見学広場。
右側の階段がかけられた建物は第三竪坑への出入り口である竪坑櫓、レンガ造りの建物は三坑捲座です。鉱員たちはこの階段を下りて地底の石炭採掘現場で作業をしていました。
捲座とは、竪坑櫓に設置されたプーリーを通してケージを昇降させるための、ワイヤーロープの巻上機が設置された施設のこと。
鉱員たちは毎朝この階段を下りて地底の石炭採掘現場で作業をしていました。
夕方地上に戻ったあとは隣接する施設の共同浴場で真っ黒になった体を洗い流してから、帰宅したのだそうです。
なんだか、今にも櫓から鉱員たちが下りてきそうな階段。
この舗道を通って、島の反対側にある集合住宅に帰っていったそうです。
端島には湧水がなく、炭鉱発展の歴史の中で一番の悩みの種は水の確保でした。この貯水タンクには時代によって海水、または真水が貯えられてきました。
同僚からは「戦争にでも行けそう(爆)」と言われた記念写真。
ロバート・キャパも顔負けのトレンチコートにサブ機(笑)、酔い止め、雨天用のポンチョまで持参して完全装備のやまねこです。
第三見学広場。
左手は製品の仕上げ・メンテナンスが行われた仕上げ工場(1936年)。
仕上げ工場。壁面の出入り口が大きく崩壊しています。
正面中央の黒い集合住宅は30号棟(通称グラバーハウス・1916年)。中央の少し引っ込んだ白っぽい集合住宅は31号棟(鉱員社宅・1957年)。
国内最古の鉄筋アパートである30号棟。見学広場からは見えませんが、ロの字型をしたRC造7階建、一部半地下の集合住宅で、現在では考えられないような工法を用いて試行錯誤を重ねて建てられたそうです。例えば鉄筋には炭鉱の廃材であるワイヤーロープが使われていたり、セメントに混ぜる砂は海岸殻『採取されたものが多いために壁面には今も無数の貝殻がみられるといいます。
望遠レンズでかろうじて、2階の共用部分とおぼしきレンガの台と、3階の居室に木材の柱が渡してあるのがぼんやり見えます。
30号棟と31号棟の間にわずかに顔をのぞかせている25号棟(職員住宅・1931年)の入口。5階建てのこの建物は1階に島内唯一のスナック「白水苑」、2階に島内唯一の旅館「清風荘」があり、3階以上は職員住宅として使われていました。
さぞかし日当たりが悪かっただろうなと想像させられます。
護岸の一角をぐるりと取り巻くようにして建てられた白亜の31号棟。
鍜治工場(1957年)。おもに鋳鉄作業に使われていました。
鍜治工場の向こうにあった組合事務所は、現在ではほぼ倒壊しています。
見学コースは以上で終了。ここからは再び船に戻って島の周囲をクルーズ。
すこしでも見やすい場所を確保するべく、急ぎ桟橋に戻るのでした。
(明日以降に続く)