ラヴェル/左手のための協奏曲

ラヴェル/左手のための協奏曲 フランソワ&クリュイタンス

 あと十日ほどすれば長~い繁忙期もようやく一区切り。 
梅雨明け近い(?)この季節になると、フランス近代音楽が無性に聴きたくなる。2012年の夏にブリヂストン美術館の「ドビュッシー 音楽と美術」展で買ったCDやサンソン・フランソワのCDボックスを引っ張り出して、エアコンの効いた部屋で音のきらめきを楽しんでいる。

 フランソワの演奏の中でもラヴェル「左手のための協奏曲」は特にお気に入り。
 ラヴェルの晩年の傑作であるこの曲は、第1次大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトケンシュタインの委嘱で1931年に初演された。「戦争が生んだ協奏曲」ともいわれるゆえんである。(ちなみにパウル・ヴィトケンシュタインの兄は哲学者ルートヴィヒ・ヴィトケンシュタイン)
 ラヴェルピアノ曲の中でもこの曲はかなり異色で、冒頭はオケの最低音部を担うコントラバスコントラファゴットが低くうめくようなソロから始まるのだ。やがて次第にオケが盛り上がっていき、最高潮に達したところでピアノのカデンツァが入ってくるものの、すぐに最低音でつぶやくようなソロに移る。それはまるで羽を折られた鳥が、暗黒からはるか頭上の夏の空を仰ぐ姿をローアングルでとらえているような、「痛み」を感じさせる始まり方だ。
 ジャズを感じさせる中間部など、華やかで個性的な要素もあるものの、全体を通してピアノもオケも暗くグロテスクな響きをのぞかせる瞬間がたびたびあり、機会があれば実演を聴きたいと気になっていた。
 数年前の「N響 夏」で舘野泉の演奏に接した際、改めてとんでもない曲だと実感した。「聴くだけ」とこの眼で「見る」のとでは大違い。右半身が効かない舘野さんは、左手の親指で主旋律、残り四本の指で伴奏部分を弾いていたのだ。高音部への跳躍では上半身を90度近くまで捩じるようにして左手をグッと伸ばしている。ピアノを弾く人なら常識なのだけど、ピアノの鍵盤は左に行けばいくほど低音になる。左手だけで弾くということは(高音部への跳躍やカデンツァもあるとしても)、おのずから中低音部中心になり、暗く重い響きになる。ラヴェルは演奏者の身体的制約を活かした作曲をしていたのだ…と気がついて戦慄が走った。
 ラヴェルは「クープランの墓」で第一次大戦に散った親しい人たちを悼む曲も作っているが、その一方で戦争で欠損した演奏者の身体能力を極限まで引き出そうとする、実験者としての眼も持っていたのではないか。それは狂気とほとんど紙一重のような冷徹さとでもいったらいいのか。
 フランソワはこういう天才型の曲となると独壇場といっていい演奏を聴かせてくれる。多少のミスタッチもなんのそのと蹴散らして高みへ疾走する姿は爽快ですらある。クリュイタンスとの共演当時は30代後半だから、アル中が悪化して容貌が変わってくる前の録音かもしれない。ラヴェル「に」乗り移ったかのような鬼気迫る熱演を見せたフランソワのその後を思うと、やはりこの曲には狂気じみたものがあると思うのだ。