銕仙会10月定期公演

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狂言「縄綯」
シテ 山本泰太郎
アド 山本則孝
   山本東次郎

 能「松風 見留
シテ 浅見真州
ツレ 長山桂三
ワキ 宝生欣哉
アイ 山本凜太郎 
大鼓 柿原崇志
小鼓 大倉源次郎
笛   藤田六郎兵衛   
(10月14日(金) 宝生能楽堂

 久しぶりにお能を観てきました。最後に観たのは7月の興福寺勧進能、その前が6月の日経能だから、ひところに比べれば頻度が落ちているけど、その分気合入れて観に行きます!
 この日の「松風」は本当に素晴らしかった。今まで見た中で一番血の通った、松風という女性をリアルに感じさせる舞台でした。芳醇なお酒をゆったりと味わうような二時間だった。

  開場時間の少し前に水道橋の宝生能楽堂に着いたのだけど、いつも以上の行列ができていて、今夜の舞台に対する期待感が狭いピロティに充満しているのが伝わってくる。

 宝生欣哉の謡い出しは重厚で、今さらながらワキって本当に重要なんだなと実感。書割も何もない舞台に秋の海浜の風景を描いて、ワキの謡に導かれて須磨の浦にトリップさせられるというか。対するアイの凛太郎君はかわいそうなくらいのキンチョーっぷりでした(無理もないけど)。

 松風と村雨の関係は、一人の女性の中の多面性とか、二人で一人という関係性ではなく、それぞれ人格を持つ、全く別の人物であるように感じられた。シテとツレの謡い出しは息こそぴったり合っていたものの、声質がまったく違うからでしょうか。私の位置からはツレの方がよく見えていたのですが、パンフレットによるとツレの小面は近江作の「早蕨」で、何年か前に銕仙会の「千手」でシテ(浅見慈一)がかけていたものだったはず。もしかして浅見家の面なのかな。すっきりとした気品のある美しい乙女の顔で、凛とした声質のツレの雰囲気にも合っていて、今日はツレにもいい面をかけているんだなあ~と感心したのでした。そのせいもあってか、松風・村雨との間に主従関係みたいな感じがなくて、齢の離れたお姉ちゃんと妹という感じです。
 シテはいつもは決して声量の大きいタイプではないのですが、この日は気魄がこもっていて、謡って声量とか声質の美しさだけではないのね!シテ柱を曲がってこちらに向いた姿が、ツレにも増して美しい。特に節木増の面は寂しげな情感を漂わせた面差し、吉田健一のいうところの月光を浴びているような女の面とはこういう面のことかもしれない。潮を汲む姿も端整で、うつむいた面がまるで生きているかのようだ。
 シテの謡う潮汲み労働のつらさ、秋の須磨の浦の夕景色の美しさ、そのうち知っているはずの文言の意味すら飛んで、膝の上の謡本の存在も忘れ、ただただ妙なる音楽を聴くような気持ちでうっとりしていたとしか言いようがない。都から来た貴公子との夢のようなひとときの後現実に戻って潮を汲むのは、それまで以上につらく、はかなさが身を噛むような日々だったのではないか。二人の乙女の置かれた、永遠に続くかのような虚しさと孤独が直に伝わるような、抑制をきかせつつも情感のこもった謡だった。背景を描く地謡も情感たっぷり。うーん。
 いつものごとく、宿を借りたワキに実は私たちは松風村雨の幽霊で…と打ち明ける。行平の無聊を慰めるために、潮汲み乙女たちは松風・村雨という仮の名をつけられて、労働着を脱いで十二単に着替えて香を焚きしめた…というくだりで、行平の気まぐれに翻弄された姉妹の哀れさがぐっと迫ってきます。松風と村雨って、彼女たちの元の名前じゃないんですよ。行平にとっては一時の源氏名にすぎないその名前こそが、二人を死後まで決定的に縛ってしまったのだと。
 そしてシテが行平の狩衣と烏帽子を取り出してじっと見つめる場面。ここは演じるシテによって本当に違うよね。友枝昭世は生きている恋人のように狩衣をかき抱いていたけど、浅見真州はあっさりめで最初のうちは諦観が感じられる。でも何度も取り出しているうちにだんだん執着が昂ってきて、じっと見つめる目の光が強くなってくるような…狂気がすーっと全身の表面を覆っていく様子が、さすがです。浅見真州の「執着が昂じての狂気」の表現って、右に出る者はいないんじゃないかと思えるくらい好きです。ハマります。

 とうとう松が行平の姿に見えた松風は、「ベニスに死す」のダーク・ボガードそのままに、恋人の姿になりきりつつ幻覚を見て涙を流す姿はまさに狂気そのもの。松風の目線の先にある妄想も見えるような気がするだけに、ああこの人本当に狂っちゃったんだな…と静かな戦慄と哀しみを感じさせる。
 一方で村雨の態度が、結構キッパリ「もういい加減にしてよ」と言っているようなのが、病人のいつもの妄想に付き合わされている家族という感じで、そこが現代的(?)というかリアル。二人の世界の交わらなさ加減が今までにない感じで、面白かった。全体を通して、この舞台では村雨はそれほど存在感を強くアピールしているわけではないけど、村雨を松風の従属物ではない、一人の女性として扱っている印象を受けた。

 松風の舞は、ときおり松林を吹き抜ける風に流されるように、すーっと速くなったり、たゆたうような流れもあり、このまま時間が止まってほしかった。
 浅見真州の舞台には「道成寺」の蛇体が見せた、親と男の言葉を信じたばかりに地獄に堕ちてしまった少女の哀しみ、「砧」の女の、自分を捨て置いた夫の真意を聞いてようやく救済を得るまでの孤独感とか、女性の執心の底にある愛情といじらしさに対する優しい視線が感じられる。
もしかしたら、私はそこに惹かれているのかもね。