国立劇場開場50周年記念 特別公演一月

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 2017年最初の観能に、国立能楽堂へ。
今年は一体どれだけの舞台を観ることができるのだろう…。

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 「錦戸」
 「目玉」だけ見てあわててチケットを買ったので、当日まで宝生流の「錦」を「錦」と勘違いして、
「『錦木』に『綾鼓』なんて、バランスの悪い番組だなー」
と思っていた私。
 舞台で金井雄資を見た瞬間、アタマが「???」となりましたデス(爆)。

 あらすじはというと、義経をかくまった平泉の藤原秀衡が死去して、頼朝方につこうとする長男・錦戸と父の遺言を守ろうとする三男・泉三郎は決裂。
泉は「賢人、二君に仕えず。貞女、二夫に見えず」と説き、
泉の妻は自害。泉の館に押し寄せた錦戸の軍勢に三郎は奮戦するものの、ついに持仏堂で自害するのでした。
(※錦戸は庶子なので、二男の泰衡が当主の座を継いだ)

 宝生流はすごく久しぶりに観たのだけど、こういう「忠義モノ」がハマる気がする。「高野物狂」とか「満仲」とか。
「錦戸」は主君への忠誠のために身内の犠牲を伴うところが「満仲」に似てるかも。
 シテ&ワキはじめ、金沢の能楽堂でおなじみの顔ぶれなので、なんか懐かしかったです(笑)。
 妻の自害までの前場は予定調和的な感じ、後場の派手な立ち合いはエンターテイメントな曲ですね。
 錦戸方の郎党たちは圧倒的な武力の差のせいか、鬨の声は正直いってやや消化試合的な感じが。。
なので、最初の三人は窮鼠猫をかむ勢いの泉にアッサリ斬られるのだけど、多勢に無勢、泉は命運が尽きたことを知って、持仏堂(一畳台)にこもって自害する。
 自害するシテが一畳台から転がり落ちるようにでんぐり返し(!)して、間髪入れず錦戸の郎党二人に両側から抱え上げられるように立たされる型は、敵方に「首級」を取られたのがわかりやすい。泉はそのまま郎党二人に抱えられながらすごいスピードで幕入りし、それを見送る錦戸。
 悲劇なんだけど、歌舞伎を逆輸入したのかと思うような派手で無駄のない構成の曲。重い「綾鼓」の前に、よく冷えた苦みの効いたビールのような、一種の爽快さが感じられる舞台でした。


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「綾鼓」
 「綾鼓」は観世流では中世まで上演能だったのが江戸中期に「恋重荷」を採用したために、それ以降は顧みられることがなかったという。
 今回の公演は、平成27年2月に浅見真州が節付・演出した横浜能楽堂特別公演での復曲初演を再び採り上げたもの。演能者はアイ以外はほぼ初演と同じ顔ぶれでの再演。今回は浅見真州がどう演じるのか楽しみな舞台でした。
 二年前の横浜能楽堂の初演を私は観ているけど、あまりにも衝撃的な舞台で、見所の熱のこもった空気や終演後に頭を冷ますために早春のかもん山からみなとみらいに下りて、そのまま山下町まで歩いていったのを覚えている。
 初演の後シテにはおぞましいまでに生々しい男の怒り、暴力性が漲っていて、恐怖のあまり喉が張りついた女御の声にならない悲鳴が聴こえてくるような、異様な雰囲気だった。

 今回の舞台に感じたのは、「絶望」。凄まじい怒りを通り越した果てにある老いた男の絶望感。
 冒頭の松田弘之の笛がりょうりょうと響いて、シテの行き場のない心の有り様が、見えない書割のように舞台に広がる。
 二年前よりひとまわり小さくなった庭掃きの老人は、ゆっくりゆっくり橋掛かりを進んで、綾張りの鼓(太鼓)が掛けられた池のほとりの桂木に向かっていく。ツレがほっそりした長身のスーパーモデルのような女御なだけに、小柄なシテの老いが強調されて、女御の冷たさというより身の程知らずの恋を抱いた老人の愚かさ・哀れさを感じる。
 たぶん恋の病で体調崩して仕事にも支障が出たのが評判になって、女御にしてみれば片腹痛いけどクビにするのも不憫だし…くらいな感じで「綾の鼓」を打たせたんじゃないだろうか。と思えてくる。可哀そうだけど無駄と思い知れば諦めもつくだろう、というわけだ。
 女御の意図を知らない老人が「さなきだに、闇の夜鶴の老いの身に」思いがけず訪れた僥倖を喜ぶ場面から一転、鳴らない鼓を「もしも老耳の故ならんと」と思おうとし(それ自体が若い女との恋の資格がないことを物語っているのに)、鼓が鳴っていないことを知って絶望へ滑り落ちていく描写は、限られた動きながら鬼気迫る。
「恋重荷」だと恨みの言葉を吐いて走り去っていくけど、鼓の音も聞こえず想い人の姿も見えなくなって、世界が闇に閉ざされてがっくり膝を落して入水してしまう「綾鼓」の方が救いがない。

 老人の死を知った女御は「え?あんなことで死んじゃったの…」という風情で報告を聞いていたのが、池のさざ波が鼓の音に聞こえると言い始める。
 初演では宮中一同が今にも異変が起こりそうな張りつめた空気を共有していたけど、今回は女御にしか幻が聴こえていないように見えた。
 後シテの装束は半切が違うくらいでほぼ同じ。くすんだ灰色の長頭を振り乱した小柄な鬼が、若く美しい女御にじりじりと迫ってくる姿はやはりおぞましい。(ツレの人選は視覚的効果も狙ったのかも、という気がしたくらいだ)
 初演時の、男の力で女を押さえつけるような呵責ではなく、というか今回の鬼にはそこまでの力はなく、ひたすらかなわぬ恋の苦しみ・恨みを訴え続ける。
 とはいえ、ひたすら恨み言をネチネチ言いながら女御の顔を覗き込むように一周する粘着系の責めは鳥肌モノだ。さあお前も鼓を打ってみろ、鳴らしてみろと杖で女御を打ちすえる。
あくまで一方的な気持ちの吐露でしかないので、だんだん真っ暗な気持ちになってくる。
 「鯉魚が躍る悪蛇となって」でシテが橋掛の欄干に片足をかけ、杖を持ったまま両腕を振り上げる型は、まさに蛇が鎌首を上げて威嚇する姿そのまま。「道成寺」の蛇性たっぷりの白拍子を思い出した。片足立ちで両腕を高く振り上げた体勢のまま謡い続けるのだから、シテの実年齢を考えると身体能力の高さに驚かされる。こんな密度の高い舞台を一番でも多く見続けていられたら、と思った。

 正直いって、出会いがしらの迫力という点では初演の方が凄まじかったけれど、今回はシテ自身の老いを逆手にとったのか(?)、老人の恋をきれいごとではなく、老いの愚かさも描いていたような…。老いと貴賤の壁、鬼になって女御を責めてもどうにもならない圧倒的な絶望感が迫ってきた。シテが若いとまだ「女御の気まぐれ」による残酷な仕打ち、という感じがするけれど、浅見真州くらいになると、怒りも絶望もあくまで老人の「内」にしかないと思えてくるので、それだけに一層絶望感を増すのだろう。相手の存在しない、孤独な地獄。
 出演者が同じだけに、同じ舞台は二つとない「一期一会」なんだなーと思ったのでした。

(番組表の写し打ちが面倒だったので、今回は画像表示。楽だけど、後日出演者を検索できくなるデメリットも。う~ん)