岩手県立美術館①

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 黄金週間の初日、一泊二日で盛岡に行ってきました。
 今回は岩手県立美術館で常設展示されている松本竣介舟越保武の作品がお目当て。調べてみたら、岩手県立美術館では松本竣介は203点(スケッチ含む)所蔵しているそうです。
 美術館は盛岡駅からタクシーで7,8分。街の中心地の反対側ということもあって人出があまりなかったですが、建物がいい。
入ってすぐに緩やかな曲線を描いて並ぶ灰白色の柱が、まるで神殿に足を踏み入れたような気持ちにさせられます。

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 ちょうど岩手県出身の萬鉄五郎展を開催していたのですが、脇目もふらず二階の松本竣介舟越保武展示室へ。ごめん、鉄五郎…。

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 年間100万人の行列ができる金沢21世紀美術館は例外として、地方の公立美術館(特に常設展)はすっごく静かです。
 特にこの展示室は海の底にいるように静かで、ほとんど貸切状態。作品とじっくり向かい合うことができました。幸せ…。

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「有楽町駅付近」(1936年・油彩/板に紙)

 前年に描かれた「建物」(第22回二科展入選作)と同じ技法で描かれた作品。この時期の竣介は福島コレクションで観たルオーに魅せられて太い線でぐいぐい建物を描いています。


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 近くでよく見ると、二本並んだレールの色が違うのがわかりますか?上のレールは青系の絵具で、下のレールは赤褐色の絵具を使っているんです。図録ではわからなかった、竣介の「線へのこだわり」が実物を見るとあらためてわかります。

「歩いてゐて好ましい建物に打ちあたることは日常の習慣になつてゐる。その時僕は荒々しい数本の線でその建物を失敬してくるだらう。」

「竝んでゐる建物は僕にとつて余り立派なものである必要はない。安つぽい建物でも幾本かの立派な線を必ず持つてゐるものである。……何よりも建物の立つてゐるといふことが僕にとつて最も大きな魅惑なのだ。」

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 一見、稚拙にすら見える1935年頃の建物の絵は、細部をよく見ると建物の柱や窓にニュアンスのある色を何層にも塗り重ねていて、窓からもれる灯、壁に反射する光を感じさせる。

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「郊外風景」(1940年・油彩)

 竣介が結婚後移り住んだ、下落合(現在の西武新宿線中井)界隈の風景。当時の下落合は西武鉄道が開発した文化住宅地で、「目白文化村」と呼ばれた。そんな戦前の富裕な郊外の雰囲気が透明な青と白の絵具でやや抽象的に描かれている。

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 この作品では輪郭線を取らず、色だけで建物の形を描き分けていると思っていたけれど、至近距離で見るとパレットナイフで彫り込むような鋭い線が引いてある。
 中野淳「青い絵具の匂い」によると、竣介のこの美しい青は、板に下地の白を何度も塗り重ねた上に、透明絵具を何層にも重ねたグラッシ法という古典技法で描かれているという。
確かに一見単純な線で描かれた画面は、よく見ると丁寧に絵具を塗り重ねて表面が透明な光を帯びている。


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「序説」(1939年・油彩)

 グラッシ法で描かれた街の風景。前面には絵筆を手にした竣介と職業婦人である禎子が描かれ、建物と群像がモンタージュ風に配置されている。
 モンタージュ風は野田英夫の影響だというけれど、竣介の場合はわりと構図がはっきりしている。シャガールの夢のようにモチーフが浮遊しているのではなくて、わりとしっかり設計・配置しています感があるんだよね。スケッチしてきた建物をカルトンでトレースしたりとか、技師になりたかったというだけあって、そういう職人的な工程を楽しんでいたんじゃないかと思えるような作品のひとつ。

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「盛岡風景」(1941年・油彩)

 この作品は舟越保武と二人展を開くために10年ぶりで盛岡を訪れた際のスケッチをもとに描かれたもの。
 この年に日本は太平洋戦争に突入し、竣介は美術雑誌での戦争協力を説く記事に反論した投稿をしたり、「画家の像」を発表したことで後年「戦う画家」のイメージで語られることになります。青い街の絵もこの頃からだんだん灰褐色をおびた沈んだ色調の画面に変わってくる。盛岡の豊かな自然とゆったりした川の流れが、竣介のひとときの心の安らぎになったのでは…と思わせるような爽やかな色調が印象的です。

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「議事堂のある風景」(1942年・油彩)

 一番長く画面の前に立って繰り返し観た作品。
図録ではくすんだトーンだけど、実際には青を下地に塗っていたであろう、不思議な色調の絵です。冬の陽が落ち始める前の、輪郭が不思議に冴える一瞬の時間を描いているような青い薄闇が紗のように画面を覆っている。まるで旧東欧の街にでも迷い込んだかのような、幻想的な感じすらする風景。

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 遠景の議事堂は異教の寺院のような不思議な色とタッチで、ぼうっと浮かび上がっているのが幻想的。絵具を何度も何度も塗り重ねては削ぎ落とし、またその上に塗って…という工程を繰り返したのか、まるで石づくりの寺院のような不思議なテクスチャーに仕上がっています。竣介は冬の夕暮れの中で刻々と表情を変えていく議事堂のかたちにを捉えようとしたのか。

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 当時の霞が関は町工場がたくさんあったのでしょうか。遠景の町工場の煙突から煙が出ていて人が生活しているはずなのに、画面手前に人物を一人しか描かないことで、それが時間が止まったかのような、孤独感が凝縮されている。議事堂に続くカーブがスピード感のあるタッチで描かれているのに、荷車を引く人の歩みは鈍い。
 見れば見るほど、画面の中に吸い込まれていきそうな不思議な魅力を持つ絵でした。この絵を観られただけでも盛岡に行ってよかった。

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「Y市の橋」(1942年・油彩)

 こうして書いてきて、竣介の代表作は太平洋戦争のただ中で制作されてきたんだなあと実感する。1941年を境に、都市の絵の画面がわずか数年の間に変わっていく様子を見ていると、彼は都市生活者の感覚を持った東京人であったのだと思う。


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「人」(1947年・油彩)

 キャンバスを前に立てていることから、画家の自画像でしょうか?
 戦争中に茶系と黒の絵具を防空壕に埋めてストックしたいうことから、戦後の作品は赤褐色系の抽象性の強い作風が多い。
この時期の、それまでの作風から新たな画境に進もうとする試行錯誤は、どこに行くんだ竣介~戻ってきて~!という感じの、ヘタウマ調の作品もあってあまり好きではないけれど。本人も何か気づいたのか(?)最晩年にはまた建物の絵に戻る。
 絶筆となったその建物の絵については、この旅行中に気がついたこともあるけれど、それはまた後の記事で。