「男と女の台所」(大平一枝/平凡社)

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 ゴールデンウィークの後半、夫を誘って本屋に行った。
 先日、舟越保武の随筆集を買った杉並の個人書店である。
 初めて店に足を踏み入れた時、ああ伴侶殿も連れてくればよかった!と思った。
 仕事帰りに駅前の大型書店で待ち合わせて外食して、食後にまた書店を徘徊するのが地元デートの定番というくらい、夫も本好きである。
(そういえば、初めて二人で会ったのも神保町だった)

 休日の店内はカップル率が高い。我々はそれぞれ宝の山の探求に没頭して、夫は割とさっさと黒田龍之介氏の文庫本をレジに持っていった。
私は今回も、宇宙に持っていく本を選ぶ宇宙飛行士並みに悩みまくった末に、武田百合子の25年ぶりの新刊「あの日」と、大平一枝『男と女の台所』を選んだ。
 本選びに迷った時は、結局、最初にパラパラめくったときに何か感じるものがあった本を選ぶ。出会いがしらの迫力というものは本にもあって、評判だからという理由などで「頭」で選んだ本より、直感に訴えてくる方が最後まで読ませる本が多いからだ。

 『男と女の台所』は、著者が取材した19世帯の台所に立つ「人」を描いたエッセイ。
 ページをめくると「同卓異食は終わりの始まり」という章タイトルが目に飛び込み、おやっと思ってページを繰ると「男と青菜のおひたしは相性が悪い」とたたみかけてくる。
よかれと思って野菜中心の献立を作った日に、夫が申し訳なさそうに「これ食べていい?」と魚肉ソーセージを冷蔵庫から出してきたのを思い出して、ドキッとしちゃうじゃないですか。
19の物語の中で、この章をトップバッターに持ってくる構成力が心にくい。

 台所というのは家庭のいわば「奥ノ院」であって、その家庭の生活がもろに顕れる場所である。
だから、台所の姿も定形はないといっていいくらい、19の台所たちに同じ姿のものは一つとしてない。
 家庭というものが、男と女という最小構成単位のふたりが食をともにするところから始まることを考えると、台所を描くということは、結構人間の本質を突いているのではないかと思うのだ。
 
 冒頭の「同卓異食は終わりの始まり」は、妻は野菜中心の「引き算の料理」を好み、夫はガッツリ系の「足し算の料理」を好むという食嗜好の違いが離婚の一因になった夫婦の物語。
一方が食の好みに頑なにこだわることが、夫婦の亀裂につながっていったというから怖い。
 「食」へのあくなき探究心から結ばれた若い夫婦を突然襲った、夫の末期がん。胃ろうで飲みこめなくなった夫の最後の食事は、フードブロガーの妻が作った好物の牡蠣鍋だった。
 70代の路上生活者の夫婦が青空台所で送る規則正しい食生活。吹きさらしの青空台所で、健康に暮らせる時間が長くないことを知りながらも、「女房と酸素があればいい」と答える夫。
 夫を見送った後、品川区の一戸建てでひとり暮らし、庭で大根を吊るし、鏡開きした餅を干して、折々の季節に合わせて暮らしの行事を紡ぐ90代の老女。彼女が三食いただく「仏様のお下がり」。

 出会いよりも別れのエピソードの方が印象が強いのは、片方の不在こそが、かつてその台所にあった「生活の痕跡」を強く感じさせるせいだろうか。
 中にはかなり過酷な経験をされた方もいるのだけど、どんなにつらい状況でも食べるという行為は休みなく直面するわけで、食べることこそ「生きること」という当たり前の事実を実感させられる。
 そして、連綿と続く家族の「台所」の記憶は、ときに悲しみを乗り越えていく「再生」装置としての役割を果たしている。
 
 ところで、各章の初めには各家庭の家族構成、年齢、住居地(区まで)が記載されているのだけど、連載元の朝日新聞のサイトには最寄駅まで記載されている。サイトを見ていたら、私が独身時代に暮らした街に住んでいる女性がいて驚いた。
 小さな住宅街だから、その女性とは絶対どこかですれ違っていたはずだ。じゃあ晩ごはんのお買い物はあの店か。もしかしたら知らずにレジで並び合わせていたのかも…あの頃、街の点描でしかなかった彼女が身近に感じられた。
 彼女が家族のために料理を頑張っている週末、私はすぐ近くのアパートのキッチンで、一口コンロと電子レンジ相手に一人格闘していたのである。
 あの小さな台所にも、私の痕跡は確かに刻まれていたのだ。