2017夏 山猫軒発祥の地・光原社

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 小岩井農場から車で30分ほどで盛岡市に。駅前でレンタカーを返却して、限られた時間の中真っ先に向かったのが光原社。

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 光原社は、宮沢賢治と盛岡高等農林の学友だった創業者・及川四郎氏により、大正13年に童話集「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」の発刊とともに出版社として誕生。『光原社』という社名は賢治の命名によるものです。
 賢治と及川氏がありったけの情熱をこめて出版した「注文の多い料理店」はまったく売れず、在庫の山を築きますが、このピンチが光原社の新たな事業展開のきっかけに。及川氏は農業書の販売のために各地を回る際の手土産だった鉄瓶に注目し、南部鉄器の製造販売を始めたこと、鉄器の錆止めに使われていた黒漆から漆器の製造も手がけたことが、民藝運動の提唱者・柳宗悦との出会いにつながります。柳との出会いを契機として、光原社は東北の民藝調査に訪れる柳や染色家の芹沢銈介など一流の民芸作家たちのサロンとなり、やがて民藝の聖地と呼ばれるようになっていったのです。

 宮沢賢治の作品は今読んでも古さを感じないし、当時においてはあまりに時代を先取りしすぎて、きっと理解者が少なかったのだろう。道徳的・禁欲的なイメージが先行している賢治だけど、実際は花巻の裕福な素封家の出身で贅沢を知っているし、妹トシは現在の日本女子大を出た女性。こうした環境にあって、「グスコーブドリの伝記」で地球温暖化による寒冷飢饉対策を書いた彼は、進取の気性に富んだ人であったに違いない。
 その賢治と情熱を同じくした及川氏も開拓精神にあふれる人だったのでしょうね。私は柳宗悦の著作はまだ読んでいないけど、駒場日本民藝館に行って、民藝はむしろ新しいものを柔軟に取り入れてきたジャンルじゃないかと思いました。
 賢治と民藝。両者のスピリッツにはどこか通底しているものがあるのかもしれません。

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 現在、光原社は出版事業は手がけておらず、全国各地の民工芸品を展示販売しています。
 漆喰壁と木材・瓦のうつくしい民藝建築群。松本の民藝建築を参考に造られた建物はどこかバタ臭く、優雅でゆったりとして、まさに賢治のイーハトーヴに迷い込んだかのような空間。
ロの字型の建物群の一画にシックな喫茶店「可否館」があり、二階部分は工房になっています。
 民藝建築の傑作といえば駒場日本民藝館だけど、光原社の方がモダンな印象があります。いずれも天井が高く、ゆったりして重厚な造りが特徴的。

 私たちが訪れたときは、旧館1階の中庭に面したガラスの陳列棚に並べられた星耕硝子のワイングラスが、夏の午後の光を透して平台に繊細な影を落としていました。国内だけでなく北欧の家具やアジア・アフリカ・中南米の民芸品などをセンスよく展示していることもあって、店内はどこか無国籍な高級感が。 民工芸店につきものの様式的で田舎臭いイメージは、ここに来ると吹っ飛びます。

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 細部まで美意識が感じられる建物。

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 中庭にさりげなく配置された世界各地の置物。紅葉の季節に葉っぱが落ちる姿も計算して造園されているらしいです。

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 中庭の中央にある宮沢賢治の碑。


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 細長い中庭の突きあたりには小さな林檎の樹。
 この樹の向こう側は北上川に面していて、春に訪れたときは桜の花びらが川に舞い落ちるのを眺めてました。

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 白壁に力強く書かれた賢治の言葉は、八戸市を拠点に活動していた前衛書家・宇山博明氏が昭和39年に手がけたもの。

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 たわわにみのった林檎。
 選び抜かれた、けれど日常に取り入れられる民藝の品、すみずみまでこまやかな配慮の行き届いた建物。訪れるたびにその季節のうつくしさに気づかされる中庭。

 ここで安比塗の汁椀を買ったのがきっかけで、手しごとの品のよさに目ざめてしまって、盛岡を訪れるときは必ず足を運んでいます。ここはまさに約束の地。
 今回も一生物になりそうな出会いがあったので、それは次の記事で。


【参考文献】


(追記)
 この記事をUPした後に見つけたサイト。「てくり」の記事がほとんどそのまま引用されていますが、ご参考までに。