人生の有限感、みたいなもの

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 都内では冷たい雨があがって、ひんやりした曇り空。
 閉幕まで一ヶ月をきったヨコハマトリエンナーレに行こうと思っていたけど、昨夜帰りのバスが冷房をガンガンきかせていて、レザージャケットを着て震えながら帰ったせいか、なんだか背中の具合があやしい。
 以前なら多少調子が微妙でも、貴重な休日を無為に過ごすのがほんとに口惜しくて、気張ってお化粧して出かけていたけれど、四十路に入った今では無理せず(というかできない)、すこしは体を休ませることができるようになった。ヨコトリには、こんど美容院に行くついでに足をのばそう。

 三十代を通して(そして今も多少は)、休前日や休日に私を街に追い立てている強迫観念めいたものは、「人生の有限感」なのではないかと思う。いくら寿命が延びても、目の前にあるものを楽しんで消化できる時間は本当に限られている。
 数年前に河出書房新社から倉橋由美子の文藝ムックが出ているのを見つけて、思わず中身も見ずに衝動買いした。倉橋由美子は十代から二十代前半にかけてハマった作家。いつしか読まなくなって懐かしさからムックを買ったのだけど、再読したら、当時はたまらなく魅力だった自意識あふれる文体にまったくついていけない自分に愕然とした。『暗い旅』のオマージュとして収録された鹿島田真希の書き下ろし短編『ハネムーン』に至っては、いまどきこんなスタイルの小説書いてるの?とすら思った。
 つまり、文学であろうと藝術であろうと旅であろうと、興味の関心は生花と同じなのだ。目の前に美しく咲いているたった今この瞬間こそが、手折って自分の花器に活けるべき最良のタイミングなので、「そのうちいつか」とか、ましてや「リタイヤしてから」などと言っていたら、相手が消滅してなくても自分の方が賞味(できる)期限を過ぎてしまう可能性が高い。

 こうした有限感を強く感じるひとは、はたから見ると強迫観念的に出歩いているように見えるのだろう。最近では雨宮まみ、レジェンド的存在なら向田邦子あたりが思い浮かぶ。雨宮まみの『東京を生きる』を読んだとき、生活環境も経済レベルも全然違うものの、真冬の夜に手袋もしないで東京の街を歩き続けた向田邦子の『手袋を探す』を思い出した。
 彼女たちに共通しているのは、容姿に恵まれていて美意識が高く、独身で、非常に貪欲に激しい生き方をして突然亡くなったこと。そんな人生を不幸だと思う人もいるかもしれないけれど、たぶんご本人にとってはセンサーに蓋をして、そこそこの手袋をはめて冬を過ごすような人生の方がよっぽど生きにくいのではないだろうか。いろいろなことに手を出せる時期に我慢をして、齢をとって「あのときああしておけばよかった」と後悔するのは想像するだけで耐えられないタイプでしょう。
 お二人のケースはやや極端な例だけど、私は忙しい時期に合間を縫って本を読みまくっているときに「よく読めるね」と言われたら、「今だから読むのよ~」と返してしまう。またたくまに過ぎていく時間と身体の檻におさまりきらないエネルギーを感じながら。