ヒドリノトキハナミダヲナガシ

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(ゴーシュさんへのお土産です)


9日ぶりの振替休日。
気象庁が「災害」と表現するほどの猛暑での連続勤務はさすがにキツかったけれど、しっかり食べて早寝していたせいか、なんとか生きてます。週末は勤務調整で4連休になるし。

それにしても、大雨による被災地の状況や野菜の高騰(どれも6~7割増し)の報道を見ていると、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』を連想せずにはいられない。今の気象状況、当時だったら「飢饉」といえるのでは?

国語の教科書で取り上げられる文学作品は、テクストの読解というより「道徳」として読まれることが多いし、特に宮沢賢治はその傾向が強いから、ほんの数年前まで「説教臭い」賢治は正直好きじゃなかった(ハンドルネームが山猫軒なのに)。東日本大震災までは。
年表を調べてみたら、賢治の生まれた直後(1896年)には陸羽震災が、亡くなる半年ほど前(1933年)には三陸地方大地震が発生している。当時の東北地方がインフラの復旧までに要した期間が現代とは比較にならないことを考えると、まさに災害に直面し続けた生涯だったといえるだろう。『雨ニモ負ケズ』って道徳の詩じゃなくて、リアル東北の姿なのだと。
(※青空文庫で全文閲覧できます)

この歴史的事実を知っただけで、賢治作品の(アサハカだった)読み方がガラッと変わったのを実感した。舟越保武の『巨岩と花びら』にも、継母が若い頃に乳児を間引きした話が書かれているから、ほんのひと昔前まではグスコーブドリの一家のように災害に人生を翻弄されるのが日常だった土地こそが、ゴーシュやグスコーブドリが書かれた場所だったのだ。

それを踏まえた上で再読すると、価格高騰していようと一応スーパーで野菜が買える時代に在る自分が、「清く正しく美しい賢治ワールド」とは全く違った風景を目にすることになる。

賢治に限らず、教室で文学作品に道徳的な意味づけをして読ませる授業&読書感想文は、読解の機会喪失という点でもったいないことしてるなあと思う。漱石に関しては、大学に入ってすぐ「友達を裏切ってはいけません」「坊ちゃんのように正直に生きよう」などという読み方を師匠が木端微塵にしてくれたけど。
作品を相対化して読むには、やはり時代背景はちゃんと知っておいた方がいいと思ったこの頃でした。