「嵯峨野明月記」(1)
<嵯峨本>とは、江戸時代初期に出された美しい装丁の豪華本です。
開版者・角倉素庵の創意により、琳派の能書家・本阿弥光悦が本文の版下を書き、
本文中には「風神雷神図」で名高い絵師・俵屋宗達が大胆な絵柄を描いています。
『西行花伝』で特に顕著な、辻邦生の<声>に対するこだわりが本書では
それぞれ「一の声」「二の声」「三の声」として、おのおのの人生を語る、という
モノローグ形式で、すでに確立されていたことがわかります。
あえて難をいうなら、「一の声」(光悦)と「三の声」(与一)の声調が似通っていて
どっちがどっちなんだか、わかりづらい点かなあ。
それでも、この作品の三人は三者三様、とても魅力的です。
それぞれ「一の声」「二の声」「三の声」として、おのおのの人生を語る、という
モノローグ形式で、すでに確立されていたことがわかります。
あえて難をいうなら、「一の声」(光悦)と「三の声」(与一)の声調が似通っていて
どっちがどっちなんだか、わかりづらい点かなあ。
それでも、この作品の三人は三者三様、とても魅力的です。
この<嵯峨本>成立の過程に、能が大きな役割を果たしていることになっています。
<嵯峨本>と能の結びつきは「一の声」・光悦によって語られています。
刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家業とする京都の本阿弥家に生まれた光悦は、
作中では「外見は温厚だが、情が激しく、一度激すると何をするかわからない」性格で、
若い頃、本能寺の変後の激動のなか、年上の人妻「土岐の女」との情事に溺れ、
ほとぼりを冷ますために、前田公に招かれた父とともに加賀に赴くのです。
まあ、はっきり言っちゃうと光悦は本阿弥家の「困った君」だったんでしょうね。
(追記:この記事を書いた頃は琳派の知識がないまま先走ってしまったのですが、
大琳派展の解説によると光悦は「困った君」どころか本阿弥家のホープでした~)
刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家業とする京都の本阿弥家に生まれた光悦は、
作中では「外見は温厚だが、情が激しく、一度激すると何をするかわからない」性格で、
若い頃、本能寺の変後の激動のなか、年上の人妻「土岐の女」との情事に溺れ、
ほとぼりを冷ますために、前田公に招かれた父とともに加賀に赴くのです。
まあ、はっきり言っちゃうと光悦は本阿弥家の「困った君」だったんでしょうね。
(追記:この記事を書いた頃は琳派の知識がないまま先走ってしまったのですが、
大琳派展の解説によると光悦は「困った君」どころか本阿弥家のホープでした~)
その加賀で、虚脱状態の光悦が出会ったのが加賀宝生。
二年間の加賀での生活で、彼は加賀の冬の海や舞の中に、
この世の空しさを見いだすとともに、永遠の美を追求していくようになるのですが
能を通じて親しくなった前田家の家臣・志波左近という、これまた魅力的な人物と
夏の夜を徹して謡をうたう場面は、美しく印象的です。以下長文ですが引用。
この世の空しさを見いだすとともに、永遠の美を追求していくようになるのですが
能を通じて親しくなった前田家の家臣・志波左近という、これまた魅力的な人物と
夏の夜を徹して謡をうたう場面は、美しく印象的です。以下長文ですが引用。
「私は左近と謡をうたい、能を舞うとき、まるで自分が浮世を遠く外に出て、浮世が玻璃(ギヤマン)の手箱に閉じ込められているのを見ているような気がした。そこにあるのは、左近のいう心意気―ただひたすらにその瞬間に打ち込んで生きる気組み―といったものだけだった。それは一種の自在さと静謐さを持った境地だった。(中略)それは手箱の中に入った浮世や所業のうえを舞うことだった。手箱のなかでは、人々は日々の諸行を繰りかえしていた。だが、私は志波左近とともに、その外に出て、ひたすらその舞を舞とするために、その瞬間に自分のすべてを燃焼させているのだった。その舞い立つ姿の足元に、永遠に繰りかえされる日々の営みがあり、浮世の盛衰があるのだった。(中略)私たちは初夏の庭に早い暁が訪れ、小鳥たちが鳴きはじめるまで、夜を徹して謡を吟じ、能を舞った。左近が狂女を舞い終ったとき、明障子の外はすでに白くなっていた。私が障子を開くと、露を帯びた冷たい大気の中に、見事に伸びた立葵が、透明な感じで花を開いていた。かすかな香りがあった。空は水のように澄み、その空に雲がわずかに色づいて流れていた」
(追記:林屋辰三郎氏の「角倉素庵」によると、本阿弥家は光悦の父・光二の代から
前田家の知行を得ており、光悦自身も加賀に下向していたそうです。
また、素庵の長男・玄紀と利家の姪の縁談を光悦が媒酌したらしい)
前田家の知行を得ており、光悦自身も加賀に下向していたそうです。
また、素庵の長男・玄紀と利家の姪の縁談を光悦が媒酌したらしい)