「松本竣介 創造の原点」(神奈川県立近代美術館鎌倉別館)

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 大混雑のダリ展を横目に、初冬の鎌倉へ。
 神奈川県立近代美術館の鎌倉別館はこじんまりとしていたけれど、松本竣介を活動の柱の一つとしているだけあって、出展作品のセレクトが要を得ていて小規模ながら充実の企画。
 平日の昼下がりにもかかわらず、それなりに人出があり会場は静かな熱気が感じられました。
 改装したら、鎌倉別館も北鎌倉散歩コースに入れよう。

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松本竣介(1912-1948)

 東京で生まれ、盛岡で育った松本竣介は留学経験こそなかったけれど、非常に熱心な読書家であり多方面に好奇心を持ち、
1920年代以降の国際的な近代美術の展開についても通暁していたといいます。同時代の画家仲間との交流も盛んで、西洋から輸入された技術を自分たちのものにしようとしていました。
 この企画展では、盛岡時代からの竣介の素描や彼とかかわりの深い画家たちの作品も紹介されていて、竣介がどのように自分の画風を確立していったのか、とりわけあの独特の「線描」の軌跡に重点が置かれていました。
 実はこの企画展を見るまで、松本竣介のことはほとんど知りませんでした。
 12歳で聴覚を失った彼がその才能を開花させた背景には、家族による物心両面での支えや婚家・松本家のアカデミックな家庭環境があったこと、その死後に遺作展を開いて周知に努めた画家仲間との交流など、人間関係に恵まれていたことを知りました。
 
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「建物」(1935)

 見た瞬間にルオーの影響がわかる、二科展でのデビュー作。
 輪郭を黒く太く縁どるような線描や重い暖色系統の色遣いがいかにもルオーちっくだけど、どこか異国情緒が漂っている建物群は、震災からの復興を果たしたモダン都市・東京への憧れが感じられる。彼にとって、建築や工場、橋梁は近代化の象徴なのでしょう。
 高くまっすぐに伸びた「工場」(1941)の建物と、見る者の視線を誘い込むような閉ざされた門扉の向こうの路地。
 角地に面した町工場前の路地をゆっくりと通り過ぎる荷車と黒い犬。
 何の変哲もない都会の日常の風景が、竣介の手にかかるとこの上なく美しい場所に変貌します。

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「婦人像」(1936)

 この時代の画家の、エコール・ド・パリの画家、とりわけモディリアーニへの傾倒は一度は通る道なんでしょうか。
 線描や細長くデフォルメされた顔の輪郭はモディリアーニ風・大きなうるんだ瞳にモダンなショートカットの若い女性は都会の空気を感じさせます。この年に結婚した妻・松本禎子がモデルらしいというので、どんな女性だったんだろう~と好奇心が。。

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松本禎子(1912-2011)

 彼女との結婚で「佐藤俊介」は「松本俊介」に、さらに後年「竣介」に改名します。
 禎子の父は慶應義塾大学の英文科教授で、彼女自身は自由学園を卒業後「婦人之友」の編集者として働き、夫とともに画とエッセイの雑誌「雑記帳」を創刊し、実務を担っています。
後に「主婦之友」の編集に入って生活を支えたという職業婦人で、彼らの新居は「目白文化村」に近い下落合だったというから、竣介の画風がモダンなのは、禎子とのアカデミックな家庭生活によるものが大きかったんでしょうね。

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「Y市の橋」(1944. 鉛筆・木炭・墨)

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「Y市の橋」(1944.油彩)

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「焼跡の橋」(1945.インク・墨)

 この展示では素描に力を入れていて、盛岡時代の石膏像のデッサンに遡って見ることができます。
 今までいろいろな美術展を見てきて、素描は画家の力量だけでなく、性格や制作に向かう姿勢が表れるものなんだなあと実感します。
 竣介の素描は非常に生真面目で、対象の「かたち」を自分の内に取り入れるまで何度も何度も描いています。だから油絵の線に迷いが見られない。
 また、15歳の時に父親にカメラを買い与えられた彼は、東京の風景写真をたくさん残していますが、ファインダーをのぞくことでフレーミング(構図)に意識的になっていったのではないでしょうか。
 いい写真って、被写体をそのまま写すだけじゃダメなんですよね。どこにフォーカスしてどれを捨てるのか。効果的な角度はどこなのか。竣介が私の写真を見たら、「君の写真は何でも取り入れようとし過ぎじゃないの?」と言うかも。。

 代表作「Y市の橋」も油彩だけで4点残されているけど、昭和20年の「焼跡の橋」の素描は、竣介が橋に捧げたレクイエムだと思いました。簡潔な線描から、破壊された橋を目にした瞬間の画家の悲しみ、戦争への怒りが伝わってくるような…。

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「立てる像」(1942)

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「『立てる像』下絵」(1942)

 松本竣介といえば、やっぱりこれでしょ!という感じで会場の中央に展示されていました。実物はかなり大きな絵で存在感があります。
 戦時中に「生きている画家」という文章を書いたことで、松本竣介は「抵抗する画家」というイメージが強いけれど、暗い時代に立ち向かうかのような「画家の象」に比べると、「立てる像」はもっと内面化しているというか、表現の洗練がみられます。抵抗するというのとはちょっと違うような…。
 完成直前の下絵を見ると、青年の左右の目線が微妙にずれてて、漂うような静かな表情ながら、覚悟を感じさせる。これでまっすぐな目線だったら、陳腐な表現になっていたかも。

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「コップを持つ子ども」(1942)

 お人形のように描かれた子供の線描や肌のぼかしを見て、ああ、やっぱり竣介は藤田嗣治を意識していたんだなあ~と思いました。
(当時、藤田は帰国して後年問題となる戦争画を精力的に描いていた)
 モディリアーニ、ルオー、野田英夫、フジタなどから竣介がどれだけ貪欲に学び取り、研鑽を積んで自分の表現の確立をしていったのか。
 彼の軌跡は、まるで次々と美しい卵を呑んで脱皮を繰り返していく蛇のようだ。


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「死の静物 松本竣介の死」(1948・鶴岡政男)

 1948年、気管支喘息による心臓衰弱で竣介は36歳の短い生涯を閉じます。
 中野淳の「青い絵具の匂い」のよると、出棺時には画家仲間がデスマスクを描いたとあって、その一人が鶴岡政男でした。
 死の四か月前に、竣介の顔に死相が表れているのに驚いた麻生三郎が描いたスケッチも展示されていて、竣介に対する画家仲間の愛情と同時に、「友人に現れた死すら描きとろうとする画家の執念」を感じます。
 鶴岡政男も美しい花を手向けながらも、骨と皮にやつれ衰えた「死」の姿を容赦なく描いています。
 先日読んだ「狂うひと」の中で、奄美には遺骨を近親者が食べることで死者の魂というかパワーを取り入れる古い風習があるという記述があって、それに近いものを感じました。
 島尾敏雄じゃないけど、画家の「描くことへの執着」というものでしょうか。表現者の業というか。

 「生誕100年」展の図録を盛岡の古本屋で入手したこともあって、私の「松本竣介ブーム」はしばらく続きそうです…。