暗い月曜日の読書-『犯罪学大図鑑』(三省堂)

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今週の前半はちょっとついていた。月曜日は振替休日、火曜日は即位礼正殿の祝日。もっとも、土日がフルタイム休日出勤だったから実際は差引ゼロだけど。
図書館で借りてきた本の返却期限が迫っていたこともあり、休日一日目の月曜日はトートバッグに本を詰め込んでコメダ珈琲に籠った。平日ならランチタイムを外せば楽勝だろうと思っていたのだけど甘かった。窓際のカウンター席はおひとり様男子でびっしり。むしろボックス席がガラガラで、人目がないのを幸い読みふけったのが『犯罪学大図鑑』。

 

タイトルからは扇情的な実録犯罪モノを連想するけれど、実はこの本、三省堂の大図鑑シリーズ。最近、小学館の図鑑シリーズから『キン肉マン図鑑』が刊行されるなど、あきらかに40代以上の大人をターゲットにしたニッチな図鑑が話題になっているけれど、あの三省堂の「犯罪学」大図鑑なんて暗い好奇心をそそられるではないか。
それにしても人は(そんなのお前だけだという異論もあるだろうけど)なぜ犯罪の記録に惹かれるのだろうか。本書の序論にこんな一節があって、そうかもしれないなあと思った。

 

その理由はこうだと一言で説明できるものではなく、答えはいろいろあると思う。たとえば私は、人間の遺伝子には生存本能が組み込まれていると考える。犯罪の犠牲者の運命や犯人の気質を知ることで、いかにして生き延びるか、私たちは多くを学ぶのである。

 

区立図書館の入荷前から予約して待つこと4番目。一冊のみの所蔵にもかかわらず案外サクサクと順番が回ってきたので、ある種の予感がしたのだが、はたして内容は文字通り「図鑑」だった。欧米を中心とした犯罪事件を犯罪種別に分類し、年代順に並べ、注釈やコラムも充実している。本文もあくまで事実のみを淡々と叙述し、O・J・シンプソン事件のような「限りなくグレー」な容疑者に対しても、予断を与えるような憶測めいた記述は一切なし。早々に撤退した人が続いたのも納得だ。

 

本書の白眉は何といっても「殺人」の章だろう。確認されている限り最古の殺人事件は43万年前に遡るという事案を紹介しているところがさすが大辞典。スペイン北部で発見された、頭蓋の陥没したネアンデルタール人の遺骸が、CTスキャンや三次元モデル分析によって他殺だと結論されたという。

悪事にはパターンのようなものがあるのだろうかと思ったのは、カルト集団マンソン・ファミリー事件(1969年)で、1995年に日本を震撼させたカルト集団をいやでも彷彿とさせる。人里離れた無人の農場で集団生活をしていたとか、教祖が自ら手を下さず信者に大量殺人を犯させたというところもよく似ている。
私が一番怖気立ったのは、元KGB職員アレクサンドル・リトビネンコがロシア政権からポロニウム210によって暗殺された事件(2006年)だ。リトビネンコの体内からは、ウランの100億倍の比放射能を有する放射性物質ポロニウム210が大量に検出され、集中治療室で治療を受けるも服毒23日目にして死亡。飲んだ時点ですでに死んだも同然、世界最高レベルの医療技術をもってしても救えないというのだから怖しい。服毒の現場とされるロンドンの寿司店や容疑者の宿泊したホテルからも高濃度の放射性物質が検出されたというから、ここまでくればもはやテロの域だ。

 

また、「強盗」や「詐欺」「誘拐」も読みごたえがある。航空機をハイジャックし空港で身代金20万ドルを受け取った後、高度3000m上空でパラシュートをつけて飛び降りてまんまと逃げおおせたD・B・クーパー事件(1981年)なんか、映画の世界そのままだ。
また、1946年から21年間にわたってモディリアーニピカソなどの贋作を描き続け、それをボストン美術館など世界中の美術館やギャラリーに売りさばいたエルミア・デ・ホーリーの「苦悩」や、ヒトラーになりきって全61巻もの「日記」を捏造し、ドイツの大手出版社に破格で売りつけたコンラート・クーヤウの贋作事件も妙な余韻が残る。ホーリーなんかはたびたび逮捕されて、一度ならず自分自身の絵の制作に戻ろうとするものの贋作ほどの評価が得られず、また贋作の制作へ…『アマデウス』じゃないけれど、芸術の神様から罰を下されたのかもしれない。
なお、日本からはヤクザ(組織犯罪)と帝銀事件(大量毒殺事件)が紹介されている。

 

350ページ以上の長大重厚(ほんとに重い)かつ濃厚な図鑑、トータル4時間かけて読みきった(ふぅ)。

本書がいわゆる実録系ムック本と一線を画しているのは、犯罪には必ず犠牲者がつきものであること、社会的影響の大きい犯罪を追うように科学捜査技術が発展し、類似犯罪の防止や解決に貢献してきた歴史にもふれているところだろう。

現在の日本でも、少なくとも都市部では防犯カメラの網が張り巡らされていて、逮捕の早期化や自白のみに拠らないエビデンスも得られるようになったけれど、いまだ網の目から漏れたところで犯罪は起きている。悪事は人間の仕業である以上、捜査技術がいくら発達したところでなくなりはしないのだろう。追う者と追われる者、人間の業の記録とでもいえるような図鑑で、犯罪を読むことは人間のある一面を知ろうとすることかもしれないと思った。