「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」(文化村ミュージアム)

 20℃超だった初旬の暖冬から一転、急激に冷え込んだ都内。
凍える夜にふさわしい美術展に行ってきました。
 渋谷の雑踏には、年々ついていけなくなってきています。昔、コンサートの終演後にNHKホールから渋谷駅まで一緒に帰ってくださった方が、雑踏をものともしない私に感心していましたが、そんな私もいつの間にか「感心する側」になっていました…。
 
 チャイコフスキームソルグスキーなどの音楽やバレエに比べると、同じ革命前の時代でもロシア絵画はそれほど目にする機会がありません。数年前に文化村ミュージアムでレーピン展を観たとき、ロシア絵画、意外といいじゃんと思ったくらい。
 ムソルグスキーにも通じる荒々しさを感じさせたレーピン展に対し、今回は「ロマンティック・ロシア」と題するだけあって、全体的に抒情的なセレクト。チャイコフスキーラフマニノフが似合う美術展といったらいいでしょうか。
 
 
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イサーク・レヴィタン「春、大水」(1897年)
 
 展示室に入ってすぐ目に入ったのはサヴラーノフ「田園風景」。やわらかな緑にふりそそぐ春の日差しに、寒さと雑踏ですさんだ心がふっとやわらぎます。長く凍てつく冬の後に、待ちのぞんだ春がようやく訪れた喜び。
 レヴィタン「春、大水」は雪解けによる大水で浸水した木立や農家を描いたものですが、早春の冷たく爽やかな風さえ感じられて、見ている私が水辺に佇む画家の身体に乗り移ったかのような…。冬の長い土地で生まれ育った私自身の記憶が、画家の身体感覚に共鳴したのかもしれません。
レヴィタンは他にも春の森にすっと立つ樫の木を描いた作品がありましたが、樹に人格があるような、陰影の表情豊かな描写がよかった。そういえば、シベリウスも「樹の組曲」というピアノ作品集を残していますが、いずれも厳しい自然の中ですっと立つ樹への愛着を感じます。
 
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イワン・シーシキン「雨の樫林」(1891年)
 
 この美術展でいちばん気に入った作品。実物は124×203cmの大作で、画面の前に立った瞬間に、雨音や肌にまといつく湿気、カップルの会話や足元の泥濘の感触まで、「その場に立っているかのような」感覚をおぼえて、ひととおり見て回った後もうひと目見に戻ったほど。
 この時代の絵画は総じて写実性が強いのだけど、五感に訴えかけてくる臨場感、ある種の懐かしさすらも感じさせます。
 
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アレクセイ・サヴラーソフ「霜の降りた森」
1880年代末~1990年代前半)
 
 朝の光が凍てついた森の梢の霜に反射する、この絵も…。
印刷技術や液晶パネルの再現性が上がったとしても、実物の絵が放つ輝きまでは再現できないだろうなあと思います。
 忙しさや自分自身の身体が檻になって日常生活から離れられなくても、絵さえ見られれば、私はどこにでも行ける。そう思えた作品。
 
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イワン・クラムスコイ「忘れえぬ女」(1883年)
 
 本展のポスター作品「忘れえぬ女」。風景画に感動した後だったせいか、正直それほど心を動かされませんでしたが、生涯を通じて心に焼きついた一瞬の出会い、という印象が強い作品でした。泉鏡花の『外科室』のような…。裕福な身分を表す衣装をまとい、なぜか真冬に無蓋の馬車に乗っている女性の「謎」が、いろいろと想像をかき立てる絵です。
 
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ワシーリー・コマロフ「ワーリャ・ホダセーヴィチの肖像」
(1900)
 
 第3章「子供の世界」は農民の子どもだちを描いた作品を中心とした展示構成でしたが、裕福な階級の子どもの絵も数点みられました。
解説によるとこの少女は、法律家の父親の交友関係からその才能を伸ばして脚本家になった、というようなことが書かれていて、ふうんと思って読んでいたら、横にいた老夫婦の「この家も環境も、革命で全部壊されてしまったんだろうね」という会話にはっとしました。
そう、ここで展示されている絵画に描かれているのは、革命前の「古きよき時代」のロシア。制作年(1900年)当時、4~5歳のワーリャは、革命の年には22歳前後か。激動のロシアで彼女はどんな人生を送ったのでしょう…。
 
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ウラジーミル・マコフスキー「ジャム作り」(1876年)
 
 クウネル創刊号でスローライフのお手本として紹介されていた、ロシアのダーチャ(都市生活者が週末を過ごす、菜園つきのセカンドハウス)。実際はそんな優雅なものではなくて、ロシアの都市生活者は昔から生活防衛の手段として、自給自足をしているそうです。夏の間にジャムやピクルスなどの保存食を作っているんですね。
 ダーチャでの生活を描いた作品では、トレチャコフ「ダーチャでの朝」(1888年)もあって、こちらは庭に据えたテーブルでワンコもちゃっかりお相伴にあずかっている家族団欒の絵。
社会的な背景を知らなかったら、今あこがれのデュアルライフにしか見えないけど。でも楽しそう。
 
 ロシア革命前の音楽やバレエに比べると、ロシア絵画が日本ではそれほど注目されていないのは、ヨーロッパ王室の中でもロシアが地理的・文化的にも永らくド田舎の後進国ポジションであったことが大きいのでしょう。プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」には、当時の地方貴族がフランス語で読み書きできるが、ロシア語ではちょっと…という記述が出てきますが、母国の文化に対する知識階級の「自己評価」の低さがうかがえます。
 美術展公式HP「当時の時代背景とロシア文化の流れ」を見ると、子犬を連れた奥さんが道ならぬ恋に迷ったり、『はつ恋』のウラジーミルが父親と初恋の女性ジナイーダとの関係を知って衝撃を受けている間にも、ロシアが革命という不可避の転換期に向かって進んでいくのがわかりやすく紹介されています。
 
 芸術はアタマじゃなくて感じるものだという意見もありますが、やはり時代背景を知った上で観た方が多角的に楽しめるんじゃないかと思います。
あらためてそう感じさせられた美術展でした。