本といた夏

f:id:lyncis:20190921162315j:plain

本好きの止まり木(都内 某店にて)

名古屋で観測史上初となる40℃を超えるなど、もはや「災害」レベルだった今年の夏。
この夏は、お盆休みを外した平日後半を中心に休暇を取ったけれど、日中はあまりの暑さに外出もままならず、夕方頃に美術館に出かけ、帰りに書店や個人経営の喫茶店に立ち寄るという過ごし方だった。
都内には22時まで開館している森美術館六本木ヒルズ)を筆頭に、公立美術館でも週末は20時まで開いている館が多いから、猛暑のナイトミュージアムはほんと、ありがたい。
こう書くと完全夜型の夏休みのようだけど、起床時間は通常とほとんど変えず、遮光レベル1級のカーテンを引いた室内で家事をした後は、ほとんど本を読んで過ごした。

 

実際、今年の夏ほど集中して本を読めた休暇はなかったと思う。

5月の大型連休にロンドンに行った分、夏の出費を抑えなければいけなかったとか、年明けから初夏にかけてストレス解消と称してバンバン買いまくって積ん読状態だった本たちが部屋の一角を占拠していたとか、猛暑で日中引きこもりとか、読書に向かわせる要因はいくつかあったのだけど、やはり隙間時間にしか本を読めず、じっくり咀嚼するだけの余裕がない日々を送っていることへの「渇き」のようなものが大きかったのだろう。
先日、イギリスでファストフードばかり食べていた17歳の少年が栄養失調で失明したというニュースを読んだけれど、「速読術」「効率的な読書」「すぐ役立つ読書」の類も似たようなものだと思う。
まずいのは、そのまま(自分の頭で考えたり、批評的な読み方もせず)流してしまう読み方で、これでは動作的にページを繰ることで「読了」しただけなので、時間がたてばきれいさっぱり忘れてしまう。よくて知識の受け売りで終わるくらいのものである。現実逃避の手段の一つとしてはいいかもしれないけれど、こういう読書体験ばかりともなると、あまりにも空しすぎる。

 

恩師・石原千秋先生(仲間内では「チアキ」と呼んでいたけど、ここはきちんと「先生」と書いておこう)の著書のあとがきに、以前カルチャースクールか何かで文学講座(おそらく漱石講座)を担当したときのエピソードが書いてあった。

要約すると、ご年配の受講生からの「どうしたらそのような(過激な、という意味らしい)解釈ができるようになるのですか?」という質問に対して、「世の中に不満を持つことです」と答えたとか(笑)。
漱石を神様のように崇拝している善男善女にとっては、石原先生や小森陽一先生のテクスト論は刺激的すぎて絶対受け入れられない人もいるだろうし、「世の中に不満を持つことです」という答え方もいかにも千秋節で、学生ならともかくカルチャースクールの受講生相手なら、せめて「ものごとを批評的に見ることです」とか言えばよかったんじゃないかと思う(笑)。
この「批評的なものの見方」こそが、高校までの授業で正解とされてきた「あるべき姿(読み方)」と大学生以上に求められる読み方との決定的な違いで、大学卒業後も(基本的には)賞味期限レスで「生かせる」スキルだと思う。

(ただし、この知的な軽やかさは、メンテナンスやバージョンアップを怠っていればあっというまに鈍ってしまう。あと、いわゆる「職場で使える」スキルとは性質が若干異なるので要注意)
私は高3の全国模試で県内2位を取るなど、国語、特に現代文(だけ)は得意科目だっただけに、「学校で求められる『よい子』の正解」から「知的な軽やかさ」への脱皮に苦労した。そんなコンプレックスから未だに「卒業」できないのかもしれない。そんなことを考えた夏だった。