声の肖像 -『ハドリアヌス帝の回想』(ユルスナール/白水社)

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 毎年暮れに某温泉に出かけるのだけど、必ず本を一冊連れて行くことにしている。
 2017年は【温泉⇒テルマエ・ロマエハドリアヌス帝】という安直な連想で、マルグリット・ユルスナールの傑作『ハドリアヌス帝の回想』を選択。
 昔、須賀敦子ユルスナールの靴』を読んでからいつか読もうと思って買っていたのに、なぜか2年近く本棚にさしたままだった本。どうして今まで読まなかったのだろう?結局大晦日から暁方までほぼ夜を徹して読みきった。これから先、どこに暮らそうと私はこの本を連れていくだろう。

 第14代皇帝ハドリアヌス帝(在位紀元117-138年、62歳没)は、五賢帝時代の三代目の皇帝で、帝国各地を遍く視察して現状把握に努める一方でトラヤヌス帝の帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。ギリシア文化の造詣が深く、アレキサンドリアなど各地の図書館の保護をしたり、シンポジウムで学者を論破したり、美少年アンティノウスを寵愛したことでも有名。

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ハドリアヌス帝の別荘 ヴィラ・アドリアーナ)

 小説は、死期の近づいたハドリアヌス帝が二代後のマルクス・アウレリウス(哲人皇帝)に宛てた回想録という設定で、ハドリアヌスの一人称で語られている。
 衰えた身体がかつては食欲、睡眠欲、愛欲の赴くまま自由に駆け抜けた日々を想い、自らの生涯を語り出す…と書くと月並な要約になってしまうのだけど、ユルスナールという作家が文字どおりハドリアヌス帝そのひとになりきっているのに惹き込まれた。東海道線に乗り換えて根府川という海を見降ろす小さな駅で本から顔を上げたとき、眼下に広がる海はすでに相模湾ではなく紺碧の地中海だった。
 膨大な資料や調査を血肉にしていたであろうユルスナールが、虚構(フィクション)と現実の臨界点でハドリアヌスに憑依している。これこそ小説の可能性を追求した、(逆説的ないい方をするならば)本当の小説なのだとぞくぞくした。

わたしの生涯の風景は山岳地帯のように乱雑につみあげられたさまざまな素材からなっているように見える。わたしはそこで、本能と修養の等しい部分から形成され、すでに混成物となり終わった己が天性に出会う。ここかしこ、不可避の花崗岩が露出し、いたるところ偶然の山くずれがある。そこにひとつの見取り図を見いだそうとして生涯の跡を経めぐり、鉛か金の鉱脈を、あるいは地下を流れる川筋を辿ろうと努力してみるが、このまったく誂えものの見取り図は追憶の仕掛けるまやかしの縮図にすぎない。折りおり、ある出会いや、前兆や、事件の一定の継起を経験するとき、わたしはそこに宿命の動きを見た、と思い込む。しかし、どこへも導かぬ道はあまりにも多く、加算しても数を増さぬ和もまたあまりに多い。たしかにわたしはこの多様性と無秩序のなかにひとりの人物の実在を識別するのだが、彼の姿はほとんどいつも環境の圧力によって形づくられたかのように思われる。…

 ハドリアヌスの明晰な思考をそのまま可視化したような文章の、結晶のような美しさ。詩人・多田智満子の日本語訳のすばらしさも手伝って、皇帝の肩越しに彼の目に映るものを一緒に眺めているような錯覚さえ起こしてしまう。
 小説はハドリアヌスと美少年アンティノウスの出会いと恋の高揚がそのまま治世の黄金時代と重なって、頂点を迎える。が、そんな至福のさ中でもハドリアヌスは読む者の心を凍りつかせるような冷徹さを失わない。皇帝が巡幸でトロイの勇将ヘクトルの墓を詣出ている間に、アンティノウスはアキレウスの親友パトロニクスの墓参りをする。アキレウスとその親友の関係を皇帝と自らのそれになぞらえた愛人の行為を、皇帝はさらりと断じる。
「わたしの伴をしているこの若い半獣神をアキレウスの僚友に匹敵するほどの者と認めることはできなかった。」
 二人の関係はアンティノウスがナイルで水死したことで破局を迎えるけれど、悲劇の兆しはすでに皇帝の内にあったことがうかがわれるのだ。ハドリアヌスが自分に向けるまなざしの底にあるものにアンティノウスが気がついていたこと、皇帝の愛を永遠に繋ぎ止めるために彼がとった行動は、ハドリアヌスの一人称の語りには直接描かれないが、ハドリアヌスの視線をたどることで、読者はハドリアヌス自身すら気づかなかった愛の残酷な終末を読み取ってしまうのだ。

 アンティノウスの死で悲嘆にくれる皇帝をユルスナールは長々と書かない。ハドリアヌスはアンティノウスを神格化する一方で、愛人の名を冠した都市アンティノポリスを中継貿易地として発展させる冷徹な統治を行うのだけど、こういう人の側に居ざるを得ない人たち(皇后、養子ルキウス、アンティノウス)はやっぱり不幸になっていく。頑健な身体に強烈なパーソナリティを備えた人は、えてして家族や体の弱い人への思いやりが欠如していることがあるのだけど、病弱な養子ルキウス・ケイオニウスにいたっては過酷な前線へ派遣という無茶振りして死なれた挙句、「アイツのために三千億無駄にした」と愚痴ったりして、読んでいて可哀想すぎる(『テルマエ・ロマエ』のケイオニウスは軟弱な女好きという設定だけど)。
 そんな自己中心的なハドリアヌスへの批評のまなざしを、当のハドリアヌスの一人称を通して読みながら、私は作家と皇帝の「距離の取り方」に感嘆してしまった。漱石の『先生の遺書』における、先生に対する青年の隠された批評に気がついたとき以来のワクワク感。
 そんな頑健な皇帝にも老いと長年の激務による病が訪れ、身体も思考力も徐々に衰えていき、理性と思考力で必死に抗い、自死を望んでももうそれだけの体力も残されていない…というくだりはリアルで、老いこそ真のホラーだとさえ思えるほどの絶望感。このディクレッシェンドは秀逸だ。

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(ヴィラ・アドリア―ナにて)

 ユルスナールは、20歳の頃にハドリアヌスを書こうと思い立って以来何度も失敗し、数えきれないほどの草稿を破棄し、小説が結実したのは1951年、48歳の時だったという。
41歳でローマ皇帝という、インターネットも大統領専用機もない時代に広大なローマ帝国を統治しなくてはいけない権力と任務につき、領土をほぼ踏破して行政を整備したハドリアヌスとの「距離を学ぶ」には、フランス貴族の末裔に生まれ、ヨーロッパ文化の粋の中で育ったユルスナールにしても人生の半ば以上もの歳月が必要だったのだ。そして時機の訪れを得たユルスナールはそれこそ一気に書きはじめる。

 わたしはニューメキシコ州のタオスに出かけた。この本をふたたび書きはじめるための白い紙を携えて。向こう岸に泳ぎ着けるかわからぬまま、水に飛び込む泳ぎ手のような気分だった。ニューヨークとシカゴのあいだ、玄室にこもるように寝台車の個室に閉じこもって、夜おそくまで書きつづけた。そして翌日は一日じゅう、シカゴ駅のレストランで書いた。雪嵐のために立ち往生した列車を待たなければならなかったのだ。そのあとサンタ・フェ特急の展望車で、またしても夜明けまで書いた。乗客はわたしだけだった。列車の左右にコロラドの山々の黒い頂が連なり、空には星々が永遠のデッサンを描いていた。食物、愛、眠り、あるいは人間に関する知識のくだりは、そんなふうにして一気に書かれた。あれほど熱中した一日も、頭があれほど冴えわたっていた夜の数々も、ほかにはあまり思い出せない。

 ユルスナールを引き合いに出すのも恥ずかしいけれど、いまこんなたどたどしい雑文を書いている私にしても、『ハドリアヌス帝の回想』の扉を開けるために、ささやかな読書体験なり教養なり人生の経験という小さな杖がかろうじて頼りになっていたのだと感じる。
 10年後、20年後にこの小説を読み返すとき、私の目に映る世界はすこしは広がっているのだろうか。そんなことを考えた。