吉田健一の翻訳


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 数年前から吉田健一の初版本を少しずつ集めているが、去年の夏以降、イギリスの近現代文学を読むようになってから、翻訳家としての吉田健一の著作にも手を出し始めた。3年前に岩波文庫から訳詩集「葡萄酒の海」が復刊した際、昭和39年に垂水書房から500部限定で刊行された初版本も入手したのだが、詩の行間から漂ってくる香気に魅せられたのである。
 吉田健一の翻訳家としての業績の中でも特に評価が高いとされるのが、チェスタートン「木曜の男」、イーヴリン・ウォー「ブライヅヘッドふたたび」、そしてエリザベス・ボウエン「日ざかり」の3冊。先日、ようやく初版本を入手することができたのでつい吹聴しちゃう次第である。
 
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「ブライヅヘッドふたたび」(昭和38年/筑摩書房

 イーヴリン・ウォー吉田健一訳は「ピンフォールドの試練」が白水Uブックスから最近復刊されているけど、ウォーの傑作はこの「ブライヅヘッドふたたび」。あらすじはいたってシンプルで、第二次大戦中にブライヅヘッドの屋敷に駐屯する将校として訪れた主人公が、この屋敷に住む元恋人と再会していろいろあるけど、結局よりを戻さないというストーリー。
主人公がオックスフォード時代を回想する場面の文章が独特。

……それは夏休みになる為の、ボートレースの季節で、その頃の、水が押し寄せて来るのが余りに早かったために、今ではその昔、海底に沈んだリヨネッスの王国と同様に、全く跡形もなく消え失せてしまったその頃のオックスフォードは、まだ水彩画の色をした町だった。

 ちなみに装丁は宇野亜喜良です。

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「木曜の男」(昭和31年/東京創元社

 「世界推理小説全集」の一冊として刊行された作品。ちなみにこのシリーズ、他にはクリスティ「三幕の悲劇」を西脇順三郎が、「ABC殺人事件」を堀田善衛が翻訳しています。
 初版本の魅力のひとつはやはり装丁で、出版された当時の時代背景というか空気感が伝わってくるのがいい!

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 保存状態は良好で、当時の別冊や愛読者葉書まで入ってる!

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「日ざかり」(昭和27年/新潮社)

 そして、私の古書史上最大の収穫がこれ!
 エリザベス・ボウエン「日ざかり」の吉田健一訳は幻の書といわれていて、東京23区トップの蔵書数を誇るS区立図書館でも所蔵していないし、古書市場にも滅多に出てこない稀少な本なのです!!先日、ある古書店で偶然見つけたときは一瞬迷ったけど、思いきってカード決済で購入しました。銀座かねまつのバッグ買った時よりうれしかった!(←わかりやすい)

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 エリザベス・ボウエンがThe Heat Of The Dayを発表したのが1949年(昭和24年)だから、同時代に日本語版を刊行していたのですね。
 吉田健一のあとがきによる、あらすじの要約は以下の通り。出版当時、この作品がどのように受容されていたのかがうかがわれる秀逸な一文です。

 これは恋愛小説であると同時に一種の戦争小説であり、そして又、一種の思想小説でもある。一人の中年の女と、思想的にナチ・ドイツに共鳴している英国の将校の恋愛は、この異常な取り合せの為に本ものの、場合によっては清純に抒情的でさえある恋愛関係たるを少しも失っていない。又、一九四〇年当時の空襲下のロンドンと、そのロンドンでの生活の描写は、多少の環境の相違があるにも拘らず、正確で切実である点で我々の戦争中の記憶をよみがえらせるに充分なものを持っている。それは或いは我々の経験と全然異なっているのかも知れない。併し我々がそう感じないのは、それだけ自分の環境に忠実な作者の眼がそこに働いているからなので、我々はその眼を通して観ずにはいられなくさせられるのである。死を前に張り詰めた心境に映る風景の、<硝子戸越しに眺めたような>静寂は、我々にも無縁ではない筈である。

 ボウエンの作品は岩波文庫「20世紀イギリス短編小説集」上巻収録の「幽鬼の恋人」を読んだことがある。疎開先の郊外からロンドンの家に日帰りであわただしく戻ってくる描写に、不安と焦燥感が切実に表れてて、戦争を知らない世代の私にも、あの当時の主婦の生活感覚の方が、恐怖小説としてのストーリーよりも印象的だった。「日ざかり」も読むのが楽しみ。

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 旧仮名づかいで表記されている!
 現在文庫本で復刊されている著作は(当然ながら)現代仮名づかいなので、そこから入った読者はオリジナルがどんな文体だったのか知らないけど、初版本で読むと時代の空気が伝わってきて、脳内イメージまで変わりそう。
 読書という行為だけみると、電子書籍の方がコストパフォーマンスがいいのはわかるけど、やはりobjectとしての紙の本の魅力は手放せそうにない。