最後の文士

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古九谷の見事な大皿に鯛が反り返りそれを浸す酒がこつ酒にしかない光沢を帯びる時、何か海を飲む思いがする。金沢は謡が発達しているそうである。それも解る感じがするので、朱塗りの壁に金屏風を置いてこういうものを飲んでいれば謡の一つも謡いたくなって不思議ではない。それも、その艶な空気からいって「鞍馬」のようなものよりも、「卒塔婆小町」の
 
酔をすすむるさかづきは、寒月袖にしづかなり。・・・・・・
 
というような一節だろうか。
これも何年か前に、一緒に金沢に来た観世榮夫氏がお座敷で背広を着たまま「景清」を舞ったことがあった。そういう格好であれだけの感じを出して舞えるのは見事という他なかったが、あれ程の芸であるならば、金沢で飲んでいる気分を忠実に現して「熊野」とか「松風」とかをやって戴きたかった。そういえば、能面でも女の面はいつも何か月光を浴びているように思われて、金沢で電気がついている部屋で飲んでいてもどこかに月光が差しているような気がするのも金沢の酒の一徳だろうか。
                                     ―「金沢、又」―
 
このブログでもたびたび取り上げた、吉田健一
今年は生誕100年にあたるそうですね。
「金沢」にみられる、あのうねりながら流れるような独特の文章が苦手だ、
という声もときどき聞くけれど、そういう人には彼のエッセイもぜひ読んでほしい。
 
「食」や「旅」をテーマにした文章ほど書き手の品性とか教養が現れるものはない、
という感想を常日ごろ抱いているけれど、その意味で吉田健一はそこんじょそこらのグルメエッセイなんぞ足元にも及ばない第一級の文章を生み出す、「最後の文士」だったと思う。
上に引用したくだりなんて、確かに金沢のお座敷での酒宴のはずなのに、なにやら清代の怪奇譚集「聊斎志異」でも読んでいるかのような、夢ともうつつともつかない空気を感じさせる文章で、この虚実のあわいを行き来するような、ことばでつくり出された街こそ「金沢」なのだろうか。
 
以前、このブログに寄せられたコメントに、金沢を「きちんとネクタイを締めている町」と書かれた方がいたけれど、その金沢を愛した吉田健一も、いつも一見地味な紺のスーツにネクタイをきちんと締めてお酒を飲んでいたという。価値観がめまぐるしく変化していった戦後の日本で、きわめて保守的な分、変わらないものを持ち続ける町として金沢に愛着を抱いたのかもしれない。
こういう、好きなもの・大切な世界を持っている人こそ、ステキでなくてなんであろう。
白洲正子が「健坊の顔は、能面の『蛙』に似ている」などと(何様かと思うような発言を)書こうと、運動神経が鈍かろうと変な人だろうと(笑)、ステキだと思います。
「三文紳士」「乞食王子」などのエッセイにもみられるデリカシーとブレない芯の強さ。
 
そうそう、写真のムック本に晩年の吉田健一行きつけの「南蛮 銀円亭」のシェフの談話が載っているのだけど、最後に目にした吉田健一の姿は、「素足に革靴で向こう側へ小走りに帰って行かれるお姿」だったとか。さりげない描写に、英国紳士の夏のお洒落をさらりと履きこなして彼岸へ走り去っていった文士の後ろ姿がありありと目に浮かぶような。。
 
白洲次郎もいいけど、吉田健一のダンディズムもいいな~と思うのでした。