シェイクスピアのソネット

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君を夏の一日に喩へようか。
君は更に美しくて、更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
太陽の熱気は時には堪へ難くて、
その黄金の面を遮る雲もある。
そしてどんなに美しいものもいつも美しくはなくて、
偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
併し君の夏が過ぎることはなくて、
君の美しさが褪せることもない。
この数行によって君は永遠に生きて、
死はその暗い世界を君がさ迷ってゐると得意げに言ふことは出来ない。
人間が地上にあって盲にならない間、
この数行は読まれて、君に生命を与へる。
                    吉田健一訳「シェイクスピア詩集」第18章)


「金沢」を読んだあと、吉田健一の翻訳ものも読みたくなって手に取ったシェイクスピア。

シェイクスピアの翻訳といえば、坪内逍遥福田恒存小田島雄志がメジャーだけど、
吉田健一の訳はリズム感があって、すっきりとしながらも余韻のある日本語が美しい。
夏の一日のように儚く移ろいゆく恋人の美しさを、せめてことばで永遠にとどめておきたい――
という詩人のせつないまでの想いが、14行の中に結晶のように輝いている。

吉田健一がこよなく愛したという14行詩集は、それ自体が一篇の恋物語になっていて、
特に冒頭の4行は、詩人のため息が伝わってくるような美しさ。

君を夏の一日に喩へようか。
君は更に美しくて、更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。

それだけに、
はかなく移ろいやすいものは、若さや美しさだけではないことが
読み進めるうちにわかってくるという、シェイクスピアらしいオチに絶句してしまう。
白洲正子は、吉田健一の文章には運動神経が皆無だと書いていたけれど
運動神経のない人が、こんな生き生きとしたことばを書けるのだろうか。