「金沢」(吉田健一/講談社文芸文庫)

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このたび新しく「金沢」の書庫をつくりました。
ちょっと迷ったのですが、アートやお能の記事も金沢のものはこちらに移すことに。

さて、金沢をこよなく愛した作家といえば、吉田健一
「書棚には500冊の本があれば、それで充分」というのが彼の口癖だったといいますが、これは何度も読み返すことができる本を500冊、という意味で、しかもランボーマラルメの詩なんかは完全に暗誦していたのというのだから、読書人として凄い贅沢です。
このてのタイプがある土地に惚れ込むと当然偏愛型になるわけで、1960年から1976年に没するまで毎年毎年金沢を訪れたのだそう。観世榮夫もこの「偏愛の旅」に同行し、「金沢の思い出」というエッセイを残しています。
ちなみに、福光屋の「黒帯」は吉田健一が命名したお酒です。

「金沢」は、不思議な小説です。
これを読んで金沢にあこがれた人は金沢駅前の巨大なドームを目にしたらガックリくるだろうし、金沢に住む人がある種の期待を抱いて読めば「なんじゃこりゃ」と言うかもしれません。
私も正直、↓の文章になれるまで結構時間がかかりました。。。
以下は冒頭の引用ですが、この小説のスタイルを端的に物語る内容でもあります。

これは加賀の金沢である。尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、ただ何となく思いがこの町を廻って展開することになるようなので初めにそのことを断っておかなければならない。(中略)これは昔風でもなく現代的でもなくてただ人間がそこに住んで来たから今も人間が住んでいる建物が並ぶ場所でそれ故に他の方々のそうした場所を思わせることからそっちに話が飛ぶことがあるかもしれない。そのことを一々言う必要もなさそうなのはどこへ飛んで行こうと話は結局はこの町に戻ってくる筈だからであるのみならず或る町にいることで人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない。我々がヘブリデス諸島を見るのは他所に寝ていて夢の中である。

この独特の文章スタイルについては後述しますが、話の筋としては(大ざっぱに書くと)、東京に住む内山という裕福な独身の男が犀川を見おろす高台の家を借りて、土地の精に誘われるようにして、夢ともうつつともつかない空間や時間のなかで不思議な人々に出会い、現実離れした会話や古九谷、贅を尽くした酒食を楽しむ、というもの。
たとえば、妙立寺(忍者寺)の住職の案内で寺を見学したら、地階のすぐ外が犀川になっていた。住職が舟を漕いで着いた先は誰もいない桃源郷のような村で、そこの支那風の邸宅で住職と謎の美女「顧愷之の女」と三人で卓を囲む、といった具合です。舞台になるのは妙立寺とか成巽閣など現実の金沢にある場所なのですが、内山の目にしたものがさまざまなイメージの連鎖を招き、いつのまにか虚実のあわいのような時間と空間に漂っているのです。
こうしたイメージの変容は、出入りの骨董屋に見せられた宋の青磁の描写に特に顕著で、
「淡水が深くなっている所の翡翠の色をしていて寧ろそういう水溜りがそこにある感じだった。それを手に取っているとその底に紅が沈んでいた」の、「翡翠と紅」が内山のイメージに焼きつきます。日ならずして入った店で「緑色の着物に紅の帯を締めた三人の女」が登場し、そして三人の女のうちの一人が「顧愷之の女」として現れる・・・といった具合に、内山の中で「翡翠と紅」が次第に変容し実体を得ていくのです。

こう書いていくと「金沢」は一種のユートピア小説かもしれません。
旅の記憶を振り返ると、武家屋敷の用水だの美術館だの能楽堂だのの記憶が同時に浮かび、その時そこで見たものや思ったことまでもが混然一体となって蘇ってきます(←え、私だけ?)
そうした記憶を発酵、いや熟成させていくと「何となく思いがこの町を廻って展開」し、「或る町にいることで人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない」小説ができあがるのかもしれないなあ~と思います。だから、必ずしも現実の金沢を舞台に決める必要はないわけです。
そういえば、「金沢」に流れる空気感はお酒飲んで酩酊気分のときに似ています(笑)

だとすると、句読点の少ない一見冗長な文章も、こういうスタイルの小説には向いているのかもしれません。吉田健一の文章は評価が極端に分かれていて、福田和也なんかが散々にこき下ろしている一方で、倉橋由美子が絶賛していたりします(笑)
私が感じたのは、吉田健一の文章って英文の構造に似ているなあということ。
文意を掴もうとして前に戻って読み返すと、読み返す前はなんとなく掴みかけていた大意がすうっと引いてしまうのです。これって英語をヒアリングしながら日本語で訳そうとするとワケがわからなくなっちゃうときに似ていて、そのまま「前→後」へ読み流していく方がかえって理解できるし楽しめるんです。内容そのものは意外と(?)論理的だし。これはやはり、吉田健一が長く翻訳をしてきて、いわゆる「英語で考える」人だったからではないかと思います。

というわけで、「金沢」はというより吉田健一の小説は好き嫌いが分かれると思います。
私はというと、金沢を取り上げているからという理由ではなくて、こういう小説もあるんだなあ~という発見が面白かったので、久々にブックレビューを書く気になりました。

ああ、黒帯の冷(銘柄指定で「堂々」^m^)が飲みたいなあ・・・・・・。