百合子さんの口紅

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口紅をさすと元気が出るのだ。口論になりそうな場所へ出かけなくてならないときは勿論、交番や警察へ出かけていくときも、税務署へ行くときも、字を書くときも、口紅さしてからだ。
そんな癖がついたのは、敗戦後まもなくの頃からだ。進駐軍のPXから横流しされてくる舶来化粧品を売り歩くのを仕事にしていたので、商売ものの口紅を使ってみたのがはじまりだ。アメリカのミッチェルという硬質の口紅が好きだった。ちょっとちょっと口紅が濃すぎるよ、ダラクしたね、などと人にいわれても、毎日真紅に塗りたくって、機嫌よかった。
武田百合子「日日雑記」―
 
 
ちょっとお疲れ気味なので、気分転換に化粧品売り場へ。
 
お肌のためにはマッサージがいいのだろうけど、「色」がほしい気分の夕方。
カウンターでケープをかけてもらって鏡を見たら、あまりにどんよりした自分に愕然。
シャネルのBAさん、口紅を塗る前にファンデーションからお直しして、仕上げにチークとハイライトをはたいてくれたのだけど、とても簡単なお直しなのに、お化粧の威力って本当にすごいよ。顔色だけじゃなくて、このところ落ち込み気味だった気分までしゃきっとした。なんか目にも力が入ったような気がする。。。(←結構単純なのです)
 
資生堂が戦後香港で出店した時、現地の若い女性が毎日のようにウィンドーショッピングに通ってきて、ある日「やっと口紅を買えるお金ができたから」と目を輝かせて口紅を買っていった、というエピソードを知ったとき、私が連想したのは武田百合子さん(武田泰淳夫人)がさしていたというアメリカ製の赤い口紅だった。
 
アイシャドーでもチークでもなく、口紅。
 
ビジネスモードでもナチュラルモードでも、口紅だけは唯一「色」を主張する物だ。
たとえベースメークからアイメーク、仕上げのパウダーまで完璧に作っても、唇に色がなければ間の抜けた無防備な顔になってしまうだろう。
口紅は、女性にとっては、装うと同時に背筋をしゃきっと伸ばさなければいけない時に必要な、優雅な懐刀でもあるのだ、たぶん。
その日のお洋服や気分によって、口紅だけ変えてもモードが切り替えられるし・・・。
 
字を書くときも口紅さしていたという百合子さんの生前を知る人たちのコメントには、「美人だ」「彼女こそ最高の人妻(by嵐山光三郎)」といったものが多い。
横浜の旧家に生まれた百合子さんは、空襲で九死に一生を得て、戦後は行商や女給までするようなどん底の生活から、ひと回り以上年の離れた武田泰淳と結婚し家庭に入った。「専業主婦」という言葉がまだなかったであろう時代のことだ。「富士日記」でも山荘の地元の主婦たちに「あんたの<仕事>は、私らが野良の片手間にやってるようなことだ」と言われて気圧される場面が出てくる。
大正生まれの女性には珍しく自動車免許を取って泰淳の運転手、口述筆記を務め、ありあわせのもので手早く美味しいものを作り、夫の死後は一人で海外旅行にも出かけたという百合子さん。
おそらく彼女のしなやかな強さ、賢さ、母性、繊細さ、そして少なからぬ色気が、
多面体の輝きを放って、周りの人たちを引きつけたのだろう。
 
あの「富士日記」を書きながら、百合子さんはどんな色の口紅をさしていたのだろう。
犬が星見た」のロシアに行ったときは・・・。
 
 
ポーチに口紅、枕元には武田百合子を常備している やまねこなのでした。