口紅を買いに

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 精神的にちょっときつい仕事にようやく目途がついたので、週末の晩、久しぶりに口紅を買いに行った。
 年々、季節の変わり目が曖昧になっていても、日差しに秋めいた透明な琥珀色を感じるようになると、夏の明るいオレンジやピンクの唇がなんだか白っぽく浮いて見えて落ち着かない。
 
 この秋のトレンドは、赤みの強いボルドーというかベリー色らしい。スティック本体は黒ずんだ赤だけど、塗ると透明感のあるベリー色という口紅がどのブランドからも出ている。木の実食べ過ぎてお口のまわりが真っ赤になったような色、といえばいいのだろうか。
 おととしの冬、銀座三越ディオール米原万里そっくりな販売員に、お客様ははっきりした色が似合います、ベージュピンクは顔色が悪く見えますと断言され、その後渋谷西武のシャネルでもベテラン販売員に同じことを言われて以来、やや濃いめの色を塗っている。健康診断のたびに貧血でひっかかる私には、血色よく見える口紅やチークはもはや必需品だ。
 今回は、第一候補のエスティローダーが爆買い客で混んでいたので、シャネルで深みのあるベリー色が上品な口紅を購入。シャネルは去年思いきって買った赤に近いオレンジの口紅も意外と使いやすかった。
 口紅を塗った瞬間、疲れていても背筋がすっと伸びるのは反射神経だろうか。鮮やかな色の力を必要としている自分に気がつく。時間に追われて、口紅がほとんど落ちたまま、空腹の自覚すらなく仕事していることが多いけれど、トイレに立った時に口紅くらい塗り直そうかな。
 向田邦子武田百合子というまったく異質なキャラクターの書き手が、ほぼ同じことを書いているのも面白い。女にとって口紅は、やはり最強のお守りなのだ。


 うちを出てすこし歩いてから、口紅をつけ忘れたことに気がついた。
 急に落ち着かない気分になった。
 別に気の張るところへ出掛けるわけではない。突っかけサンダルで、ほんのそこまでの買い物である。普段でも居職をいいことにして、白粉気は全くなしのほうだし、口紅もつけたりつけなかったりなのだが、つけたつもりでいたらつけてなかったというのが、虚をつかれたようで、居心地が悪いのである。
(中略)
 口紅のつけ忘れや洋服のほころびに気がつくと、どうしても態度に出る。
 心臆しているせいか楽しくない。いつものように魚屋のおじさんと冗談を言い合ったり、八百屋で値切ったりしないで、まっすぐ帰ってくるのである。
向田邦子『口紅』―


(そうだ。やたらと威張るな。口をあけて、はっきりものを言え。ものを教えろ。)
こう口の中で練習したのち、私は老人に応えて立ち上がり、練習した通り言いたかったのだけれど、昨夜よく眠らなかった黄ばんだ顔に口紅もささず出かけてきている自分に気がつくと弱気になり、うつむいてしまった。
 口紅をさすと元気が出るのだ。口論になりそうな場所へ出掛けなくてはならないときは勿論、鋼板や警察へ出かけていくときも、税務署に行くときも、字を書くときも、口紅さしてからだ。(中略)ちょっとちょっと口紅が濃すぎるよ、ダラクしたね、などと人に言われても、毎日真紅に塗りたくって、機嫌よかった。
武田百合子『日々雑記』―