それでも無鬼論?

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阮瞻(げんせん)は、字(あざな)を千里といい、平素から無鬼論を主張して、鬼などという物があるべき筈がないと言っていたが、誰も正面から議論をこころみて、彼に勝ち得る者はなかった。阮もみずからそれを誇って、この理をもってを推すときには、世に幽と明と二つの界(さかい)があるように伝えるのは誤りであると唱えていた。
ある日、ひとりの見識らぬ客が阮をたずねて来て、式のごとく時候の挨拶が終った後に、話は鬼の問題に移ると、その客も大いに才弁のある人物で、この世に鬼ありと言う。阮は例の無鬼論を主張し、たがいに激論を闘わしたが、客の方が遂に言い負かされてしまった。と思うと、彼は怒りの色をあらわした。
「鬼神のことは古今の聖人賢者もみな言い伝えているのに、貴公ひとりが無いと言い張ることが出来るものか。論より証拠、わたしが即ち鬼である」
彼はたちまち異形の者に変じて消え失せたので、阮はなんとも言うことが出来なくなった。彼はそれから心持が悪くなって、一年あまりの後に病死した。
                        -岡本綺堂「無鬼論」・捜神記(六朝)より-
 
 
中国語で「鬼」(gui)は死者の霊魂のこと、無鬼論は文字通り「鬼は存在しない」論。
かくいうやまねこも、毎年この季節は「ほぼ日の怪談」の更新を楽しみにしている程
怪談の類は話としては好きだけど、そういうモノの実在を信じるのとは全く別次元だと
とらえています。
10代~20代は金縛りや幽体離脱?(寝ている部屋の天井まで体が浮き上がる感覚)
を体験しているけど、他の経験者も金縛り体験はその年代だけだったというから、
あれはやはり若い体力のなせる半覚醒状態での生理現象なんだろうな~と思う。
 
 
ただ、一度だけ本当に怖い思いをしたことが・・・。
 
 
あれは確か、新卒で採用された会社に入って5,6年目の年度末。
当時住んでいたワンルームは、玄関を入ってすぐキッチン・風呂・トイレで、
部屋とは引き戸で隔てられているという間取りでした。
胸が圧迫される感覚で目が覚めたら、部屋は未明特有のぼーっとした仄暗さで、
もうすぐ夜明けなんだな~と思った時、玄関のドアがガチャッと開く音が。
「え?!」とっさに、鍵をかけ忘れて不審者が入ってきたのかと動揺した瞬間、
強烈な金縛りにあって目を動かすこともできなくなりました。
そうこうしているうちに、侵入者は靴を脱いだのか、キッチンの床が静かに軋む音、
床にスーパーのビニール袋を置くような音、なにより確かな人の気配が、
引き戸一枚隔てた向こう側から濃厚に伝わってきます。
ここで下手に動いて居直り強盗になられたら。それより変質者 だったら・・・。
心臓がバクバクして冷汗が止まらない状態なのに、強い睡魔に襲われて気絶(?)。
次に目覚めたら朝、室内は何の別状もなく、玄関のドアは内鍵まで施錠してある。
ちょうど繁忙期だったし、以前の金縛り体験から、疲労で半覚醒の夢を見たのだろう
と判断して、それっきり忘れていました。
 
それから数年たった、昨年の夏。
同僚と心霊体験ネタで盛り上がった時、その話をしたら
 
「やまねこさん、それって、本当に部屋に入ってきたのかもよ」
 
「だって、ちゃんと内鍵だってかけてあったし、他に侵入経路なんかありませんよ」
 
「いや・・・だから人間じゃないのが。。『通り道』だったのかもね」
 
                    
 
霊感の強いその人の話によると、大きな道路とか川とか電波の混線しやすい場所は
そういうモノの通り道になることが多いそうです。
で、自分の存在を認めて怖がった人のところには現れたり居ついたりするけど、
強烈な体験をしても「不審者だ!」「疲れて夢でも見たんだね~」と無視されると、
だめだこりゃ~~とスルーしてしまうのだとか。
 
う~ん、でも、やまねこは「鬼」より「生きている人間」の方がずっと怖い。
 
「鬼」は弱い者に寄ってたかって暴力振るって自殺に追いやったりしないし、
まして被害を見て見ぬふりをして二度までも見殺しにして、
そのまま知らん顔して教壇や公務に立ったりはしないだろうから。
 
 
聊斎志異」や「倉橋由美子の怪奇掌編」に出てくるような、
優雅で美しい鬼となら、一緒にお酒飲んだら恐ろしくも楽しそうですけどね。
倉橋由美子には、「無鬼論」のエロティークなパロディが収録されています。