石内都 写真集『フリーダ 愛と痛み』

イメージ 1

 横浜で観た「肌理と写真」で受けた衝撃が忘れられず、図書館から石内都の写真集を借りてきた。

 メキシコの現代絵画を代表する女性画家フリーダ・カーロ(1907-1954)の遺品を撮影した『フリーダ 愛と痛み』

 フリーダの作品や人物に興味がない私でも、フリーダの生涯をめぐるエピソードは映画やイサム・ノグチの評伝などで「知って」いた。
 6歳で小児マヒにかかって後遺症で右足が短かった彼女は左右でヒールの高さが違う靴を履くことで、ハンディキャップを補っていたこと。18歳の時に乗っていたバスが電車と衝突する大事故に遭い、鉄の手すりが下腹部を串刺しにするような凄惨な重傷を負ったこと。メキシコを代表する画家ディエゴ・リベラと結婚するが、巨漢の漁色家であったリベラのたびかさなる女性関係(フリーダの妹とも関係があった)に苦悩し、フリーダもあてつけのようにトロツキーイサム・ノグチとの奔放な恋愛関係を持ったこと。
 …こう書くと、いかにもル・シネマで単館上映されている映画そのもののようなエピソードの数々だし、フリーダの作品もそれらの逸話とセットで紹介されると「わかりやすい」イラスト的な絵という印象で、そのイメージのあまりの「わかりやすさ」ゆえに、フリーダはそれ以上私の関心を惹かなかった。
 2004年、フリーダの死後50年を経て未公開だったバスルームに収蔵されていたフリーダの遺品が公開され、映画撮影のプロジェクトが立ち上がった際に、石内に遺品撮影の依頼があったそうで、石内も当初はフリーダにあまり関心がなくて断っていたとか。撮影を続けていくうちに、やがて遺品を通してフリーダの人となりが立ち上ってくる体験をしたのだという。


イメージ 2

 会期終了後にAmazonで買ってしまった『肌理と写真』にもフリーダの遺品は収録されているけれど、やっぱり写真集というテーマの集成形で観たほうがよかった。
 最初にフリーダが纏っていたメキシコの華やかな民族衣装のドレスがぱっと鮮やかに登場して、フリーダが彩色したコルセットにスカートをかぶせた写真で、こうしてコルセットで腰から上をぎゅっと締めつけて固定した上からドレス着ていたのがわかる。その間に何かこぼしたシミの残ったスカートやフリーダ自身が繕ったであろう絹の靴下の写真がズームで挿入される。『ひろしま』でもそうだったけれど、生地や繊維のズームが多い。石内が多摩美では染色を専攻していたと知って、ズームで撮影されるもの=撮影者が特に惹かれるもの・伝えたいものなのだなあ、ということを今さらながら実感。サングラスを内側から撮った写真など、今まさにフリーダがサングラスを手に取って掛けようとしている形に撮られていて、彼女の視線を疑似体験しているような気分になってくる。
 特に写真集の中程にバスタブの縁や蛇口が青っぽいモノトーンのズームで入ってくるタイミングが絶妙で、一瞬、ドレスもコルセットもすべて脱ぎ捨てたフリーダの裸足のつま先が見えるような生々しい錯覚をおこす。その後は、装いをはずしたフリーダの肉体につながるもの――大量の錠剤やモルヒネの瓶、体温計、消毒か洗浄に使われたであろう琺瑯の水差し――ひんやりと硬い質感のそれらの医療品や器具の写真は、そのテクスチャーから写真家の冷徹な視線をも感じる。

イメージ 3

 フリーダが身体の痛みと闘い、その不完全さを矯正・補充して、彼女が絵筆を執り自己演出するのに欠かせなかった遺品たちは、フリーダの身体が滅んだ後も身体の記憶の痕跡を物語る。持ち主の肉体を失ったために、遺品に遺された身体の形の空洞――コルセットの汗染みやストッキングをかがった跡――は、その不在ゆえに持ち主の存在を強く浮かび上がらせる。そして、その遺品を見つめるとき、かつてその持ち主が放ったまなざしと視る者のまなざしが重なるとき、身体の形の空洞たる遺品を通じて、私は遺品がもたらした持ち主のときめきや痛みを疑似体験することで、亡くなった人の断片をわずかにでも「知る」ことに近づくのだ。フリーダに貼りつけられた「物語」―大事故の後遺症、巨漢で漁色家の夫リベラとの愛憎関係、奔放な恋愛といった、女性で表現者であるということでスキャンダラスに語られたそれらのラベルを剥したフリーダの姿が、そこには立ち現れる。 


 欠陥のある身体、完全でない身体、いずれ亡んで消えてしまう不確実で危うい身体は、補充し、補てんし、足りないものを補わなくてはならない「なま物」なのだ。フリーダはその本質を、身をもって知っていた。欠損した我が身をなんとしても守らなくてはならない。矯正し、整えていく。石膏で形をとりコルセットをしつらえ、右と左の足の長短を靴によって補正し、耐え難い痛みから逃れるために薬を飲み、時には手術もしなければならない。それらはすべて生きることへの必要な条件だ。生きるためには、なんでもすること、試してみること、知らないことを知ることだ。彼女背中にはいつも死がベッタリと張りつき、痛みが日常を脅かす。その恐怖との戦いがフリーダのエネルギーとなり、絵筆を持たせ、絵画へと昇華させていった。
(中略)死は肉体が無くなっただけで、精神や愛や痛みという決して目に見えない、手で触れることの出来ない型のないものたちは、かつてある遺された品物たちに宿っている。その気配を確実に写真に写し撮ることが、私の仕事である。
石内都『フリーダふたたび』-